鶴ヶ城  No21208−02 (つるがじょう)       

主郭 主郭西側の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 神篦城、国府城、高野城、土岐城、
所在地 : 瑞浪市土岐町鶴城2659  
築城年 : 鎌倉時代
形  式 : 山城
遺  構 : 堀切、土塁、虎口、井戸、
訪城日 : 平成28年11月6日

歴   史
鶴ヶ城の築城時期や築城者については定かでなく、美濃守であった源国房の時、従五位上出羽守となり初めて土岐氏を名乗った光信(国房の孫)の時、建仁元年(1201)に源頼朝から美濃守護職に任じられた土岐光衡(光信の孫)の時と諸説あるが、いずれにしても土岐氏発祥の地と云われ、光衡・光行・光定・頼貞が美濃統治の本拠とした城である。
鎌倉時代末期には頼遠(頼貞の子)の弟・頼兼が鶴ヶ城主であったが、元亨4年(正中元年、1324)の正中の変で後醍醐天皇方に与し討死し、南北朝時代の延元4年(1339)頼貞から土岐家の惣領と美濃国守護職を引継いだ頼遠が本拠(守護所)を土岐郡から厚見郡の長森城に移した。その後の鶴ヶ城には土岐頼房や土岐三兵衛など土岐氏やその一族を入れ、東濃支配の拠点とした。
戦国時代になり武田氏と織田氏の勢力が拮抗するようになると、鶴ヶ城は織田氏の甲斐侵攻の中心的な役割を担うようになり、天正2年(1575)武田氏との明知城攻防戦で信長は河尻秀隆を入れて改修を行わせ、天正10年(1582)には信長・信忠父子も鶴ヶ城に入り、武田氏追討軍を発したとされる。
慶長5年(1600)関が原の戦いに於いては、西軍に与した福岡氏や嵐氏などが鶴ヶ城に入り、東軍に与した小里氏や妻木氏に攻められ開城、その後 廃城になったとされる。

構造と感想
鶴ヶ城は、土岐川の西岸に西から南東に向け二股になり張り出した尾根に築かれている。
尾根の間の谷を50m程入って左手の斜面に取付き、途中に設けられていた三の城戸跡、二の城戸跡、一の城戸跡を経て5分程で、西出丸と二の郭の間に開く虎口に至る。虎口を入り左手が西出丸で、右手が二の郭である。
西出丸と北東斜面に付帯する帯郭は、斜面を登ってくる城道を見下し、横矢を掛ける位置に設けられている。
二の郭は、西側に巨大な堀残しの竪土塁を付帯させ、北が一段高い二段になっている。上段から東へ尾根が延び、東出丸が設けられていた。現在は、昭和48年の中央自動車道の建設により先端部が大きく削りとられているものの、180°展望が開けている。
二の郭上段の東端から北西に坂土塁を登ると虎口受けを経て主郭南東隅の虎口に至る。主郭は東西に長い良く削平された方形で千畳敷と呼ばれ、土岐頼兼を祀る土岐神社が建っている。
主郭の西側は、深さ7m程の堀切で、主郭をはじめ各郭の切岸は断崖絶壁で、鉄壁の守りである。また、二の郭上段の中央には、現在も水が溜まる大きな井戸跡が残っている。
鶴ヶ城から南へ約2.5km程の国道19号線(旧道)と県道20号線が交わる交差点脇の八幡神社境内が土岐氏居館であった一日市場館跡である。

道 案 内
中央高速道の瑞浪インターで下り、料金所から400m程先のT字路で左折し、右にカーブしながら進むと瑞浪IC口交差点に至る。そこで左折し県道352号線に入り、道なりに4.6km程走るとY字路があり左手に進む。(右手は県道で直ぐ国道19号をくぐる。)左手に入り30m程で十字路を左折し、直ぐに中央高速道のガードをくぐり左折する。側道240m程進むと右手に階段あり登城口である。奥に巨大な城址碑がある。

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城址碑              登り口

 
主郭虎口            二の郭上段

 
二の郭上段の井戸跡          東出丸 

 
西出丸            西出丸の切岸