苗木城  No21206−01 (なえぎじょう)       

本丸石垣と天守台 大櫓台

城郭の概要                  
別  名 : 赤壁城、高森城、
所在地 : 中津川市苗木
築城年 : 天文初年(1532)
形  式 : 山城
遺  構 : 空堀、竪堀、堀切、土塁、石垣、櫓台、土橋、虎口、井戸、
訪城日 : 平成21年10月23日

歴   史
苗木城の築城時期については諸説がある。遠山一雲入道によって元弘から建武年間(1334〜37)に築かれたとする説(『苗木物語』)、同じく一雲入道によって大永年間(1521〜27)に築かれたとする説(『遠山系図』)、遠山正廉(直廉の誤記)によって天文年間(1532〜54)に築かれたとする説(『高森根元記』)があるが、戦国期には間違いなく苗木遠山氏の居城になっていた。
永禄年間(1558〜70)当主勘太郎(岩村城主遠山景友の次子直廉か)は織田信長の妹を娶り、直廉の娘は信長の養女となって永禄8年(1565)甲斐の武田勝頼室に嫁して、勝頼の嫡男信勝を生んでいる。
直廉が元亀元年(1570)に継嗣なく病没すると(天文14年、弘治2年、永禄12年没説もある。)、信長の命により一族の飯羽間城主遠山友勝が苗木城に移った。友勝の死後は、阿寺城の子友忠が苗木城を継ぎ、長子を飯羽間城、次子を明照城に配して武田勢への備えとした。元亀3年(1572)11月伊那高遠城主秋山晴近を将とする武田勢が東濃へ攻め入り、飯羽間城・岩村城は落城するが、苗木城は持ち堪え、織田方の最前線の任を担った。
本能寺の変後の天正11年(1582)友忠・友政父子は羽柴秀吉方の金山城主森長可と争うが敗れ、徳川家康を頼って浜松に落ち延び、苗木城は長可の手に帰し、弟の忠政が入城している。慶長4年(1599)森氏の信濃川中島への転封により河尻直次の領有するところとなった。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、西軍に与した河尻直次の城代関治兵衛が守備する苗木城を家康の命を受けて友政が攻略し、戦後恩賞として恵那・賀茂郡内で1万,521石を与えられ、苗木城を居城とした。以後、遠山氏が12代続き明治を迎えた。
昭和56年には、城跡の主要部が国指定史跡となって、発掘調査が行われ石垣等の修復が図られている。

構造と感想
苗木城は、恵那峡口北岸、木曽川から岸壁がそそり立つ城山の山頂に築かれている。木曽川を天然の堀とし、河畔に大手口を構え、城までの比高は百数十mに及ぶ要害である。また、天守から木曽川南岸を東西に延びる中山道、城の北側を通って付知川に沿って北上する飛騨路を一望できる交通の要衝でもある。
山上の東西約150m、南北約200mの城域は、随所に巨大な岩や岩磐が露出し、それらを巧みに石垣に取り込み、郭面や城道、虎口を構築しており、その巧みさ、堅固さにまずは驚かされる。
構造は、山頂部に本丸を置き、本丸の南西隅に一段高く露出する巨大な岩石にほぞ穴を穿ち懸け造りで7m四方の三層天守を立ち上げていた。現在、巨岩上に柱組みを立て、懸け造り建築の様子を再現している。本丸は輪郭式の三段築成で、その山腹を一巡する帯郭を設け、その西側に城主居住地が置かれ、これらが二の丸である。二の丸には整然と並んだ礎石が残っている。二の丸北面の大門を出た所が三ノ丸で北端部に大櫓が設けられ、北側尾根続きの遮断線とされた。大櫓南側の東西面に開く城門が大手と城下へと通じている。
苗木城は、急峻な岩山に築かれており、岩盤等により大きな制約を受け、概して郭面は狭く、建物は斜面に張出す懸け造りが多く使われ、また、密集するように建てられていた。しかも板葺き屋根に赤土壁が塗られ、近世城郭らしくない独特な外観だったようだ。
しかし、石垣だけが残る現在は、まさに近世城郭そのものの姿で、備中松山城や竹田城にも劣らないすばらしい見事な遺構である。

道 案 内
中央高速道の中津川インターを下て国道19号を北東方向に240m程行ったY字路で左手の国道257号に入る。国道257号を1.7km程道なりに走り青木交差点で左折し、さらに国道257号を道なりに2.6km程行って木曽川を渡る。そこから460m程先の苗木城バス停のある十字路で右折し、280m程東進したY字路で左手に進む。その先340m程で苗木遠山史料館がある。
史料館の背後を右手へ登って行き、5分程で足軽屋敷下に至り、ここの奥に駐車場がある。

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大櫓台             二の丸
 
駈門跡         天守台