林小城  No20202−16 (はやしこじょう)       

主郭北面石垣と二郭北虎口 主郭の背後土塁

城郭の概要                  
別  名 : 福山城
所在地 : 松本市里山辺字日向上
築城年 : 長禄年間
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、畝状竪堀、虎口、土橋、石垣
訪城日 : 平成23年11月25日

歴   史
小笠原氏は、南北朝争乱時の功績により信濃守護となり、府中(現在の松本)に入り、平地城館の井川城を構え、筑摩・安曇・伊那地方を中心に勢力を張った。7代清宗は、長禄3年(1459)林大城を築き、周囲の山々には次々と支城を配して強固な要塞群を構築していった。その一つが林小城で谷を挟んだ林大城とあわせて林城とも呼ばれている。なお、清宗の曾孫 長棟が井川城より山城の林大城に本城を移したとされる。
小城は古城ともいわれ、大城よりも古いと考えられてきたが、最近では、大城よりも縄張が複雑であることから、小城の方が後に築かれたと推測されている。
長棟の子・長時は、甲斐の武田氏と対立。天文19年(1550)武田氏が松本平に侵攻し、イヌイの城(埴原城、イヌカイ城を指すとの説もある。)を攻略すると、大城、深志、岡田、桐原山家の5城が自落し、長時は一時平瀬城に入ったが、のちに村上義清を頼って塩田城に逃れた。この時、林小城は武田氏により破却され廃城となった。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、小笠原長慶が旧領を回復し、領内の諸城を改修しており、このとき林小城も改修されたとされる。

構造と感想
林城は薄川の南(左)岸、大嵩崎集落を挟む形で北西へ突きだした尾根に築かれた山城で、集落の東に位置するのが林大城で、西が林小城である。
林小城は、尾根が緩やかになった標高774m、比高150mの先端部に土塁で囲繞した主郭を置き、背後は高土塁とし、尾根続きは3条の堀切を飛び飛びに入れ遮断している。主郭の前面一段下にはコの字状の二郭を配し、これらで主郭部を形成し、その東西斜面には畝状竪堀が施されている。
主郭部からは北西と北東に支尾根が伸び、北西の支尾根には、二郭虎口下に馬出し、そして段郭と堀切を隔て三郭、三郭下にコの字状の段郭が続き、その下方には大小の段郭を幾段も築いている。北東の支尾根も堀切を隔て、雛壇状に段郭が連続して設けられている。
林小城は、本城の林大城に比べ規模は小さいものの、縄張りは複雑で、主郭・二郭・三郭には鉢巻き石垣が施され、それが今も良く残っている。この様な堅固な造りや良好な遺構を現在も確認できるすばらしい城跡である。

道 案 内
松本城の東南東4km程に位置している。
松本城の東200m程の所にある国道143号の城東二丁目交差点を東へと県道67号線に入る。1.4km程東進した惣社交差点のY字路を右手に進み、さらに県道67号線を1.1km程道なりに走ると兎川寺交差点に至る。同交差点を右手し県道297号線に入り、南に650m程行き金華橋を渡る。さらに道なりに県道297号線を370m程走ると県道は右に折れるが左手の細い道に入る。道なりに440m程南下した右手に説明板と道標がある。

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背後の堀切               畝状竪堀群

 
東側石垣                   二郭北東石垣

 
二郭を東上より見下す            二郭下竪堀

 
水の手                  登り口