桐原城  No20202−11 (きりはらじょう)       

主郭の東方向 主郭南面の石垣

城郭の概要                  
別  名 : 蓮法城、蓮峯城
所在地 : 松本市入山辺桐原
築城年 : 寛正元年(1460)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、虎口、石垣、土橋、
訪城日 : 平成23年11月26日

歴   史
桐原城は、『信府統記』に寛正元年(1460)に桐原真智によって築かれたと記されている。
鎌倉期に諏訪神氏系の山家氏が山辺郷の地頭職として入部し、「桐原」の地を領していたが、文明12年(1480)信濃守護小笠原長朝が在地領主の仁科、西牧、山家の諸氏と対立し、山家城を攻撃、山家光家の子・孫三郎を討死させ、さらに、翌年にも対峙したと云われる。
この際、小笠原氏が「桐原」の地を支配下に置き、山家氏への前線基地として配下の桐原氏に桐原城を築かせたと推測されている。
その後、桐原氏は市正真実、蔵人真貞、織部真基と続いたとされるが、天文19年(1550)武田晴信が信濃守護小笠原長時の討伐を決意し、7月15日未ノ刻(午後2時頃)戦陣を整え、酉ノ刻(午後6時頃)わずかな戦闘でイヌイノ城(埴原城、イヌカイ城を指すとの説もある)を攻略すると、子ノ刻(午前零時頃)には長時の居城大城、深志、岡田、桐原、山家の5城が自落した(『高白斎記』)。この際、桐原氏は最後まで長時に従い小県の村上氏を頼って葛尾城へと逃れたと伝わるが、桐原城のその後については不明である。

構造と感想
桐原城は、松本平の中央東縁、小笠原氏の本城林大城と薄川を挟んで対岸に位置し、海岸寺沢と追倉沢に挟まれて南西に伸びた尾根の中腹に築かれている。
標高952m、比高212mのピークに主郭を置き、外周には石垣を積み、背後の東側には「コ」の字に高土塁を廻らし、尾根続きを4条の堀切で遮断、城域を区画している。堀切からの竪堀は、主郭の北裾から西に降り沢近くまで延びている。この竪堀から南に45m程離れて平行に長大な竪堀が掘られ、その間に幾段もの段郭を設け、面積の広い上部数段を含め中枢部を形成している。
主郭の南西隅に明瞭な内桝形虎口が開き、その虎口を南へ出て、直ぐ西に降ると二郭があり、この郭も外周に石垣が積まれ、また、内桝形の虎口が残存する。二郭虎口を西に出て、直ぐ北に降ると三郭中央部に至り、左にUターンすると内桝形虎口があり、東側の下段へと通じている。下段の北西隅から西に降ると四郭で、その南東奥の一段高所に南面が石垣積みの五郭が設けられている。
五郭から南西下方に支尾根が延び、これが大手筋と想定され、中腹の二重堀切から上方に小段郭群が続き、本格的に城域となる。
大手筋の最上部に五郭が位置し、南下から竪堀が落とされ、尾根には堀切が入れられ、ここから上方が中枢部であろう。この堀切を下がると小段郭群の上部を区画する二重堀切が設けられている。小段郭群の上下の堀切から西斜面に落ちる竪堀は途中で一本になり下方まで続いている。
巧みな縄張り、見どころ満載の遺構が、目の前に次々と現れ、本当に飽きることなく楽しめる山城である。
ところで、この城には特別な思い出がある。この城を一緒に訪れていた方が下山途中に落ち葉で足を滑らせ転倒、足首を骨折し、中腹で動けなくなり、消防隊員に背負って救出してもらった記憶です。
 ・・・山城を訪れる際は、無理をせず余力を残し、そして慎重に行動しましょう。・・・

道 案 内
松本城の東4km程に位置している。
松本城の東200m程の所にある国道143号の城東二丁目交差点を東へと県道67号線に入る。1.4km程東進した惣社交差点のY字路を右手に進み、さらに県道67号線を2.5km程道なりに走ると右手に入山辺郵便局がある。その340m程先の十字路で左折し、北に690m程行って右折れした直ぐの所に追倉沢側の桐原城登城口の標柱がある。しっかりした登山道を登れば城跡に至る。

: 城跡      : 登り口 TOPへ 戻る

 
登り口標柱            主郭虎口内より

 
二郭虎口外より                   三郭虎口外より

 
三郭西面の石垣         主郭背後の堀切

 
主郭北裾の二重竪堀         五郭下堀切の竪堀