埴原城  No20202−17 (はいばらじょう)       

主郭南面の石垣 主郭の東方向

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 松本市中山字町村
築城年 : 戦国時代
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、横堀、石垣、虎口、井戸、水の手、
訪城日 : 平成

歴   史
埴原城は、城に関する文献資料が残っていないため、詳細は定かではないが、もともとは埴原牧を背景として勢力のあった埴原氏が築城したといわれている。
埴原氏は、埴原牧が荘園化された頃、西の盆地に下り、村井に館を構えて村井氏を称し、室町時代には小笠原氏が信濃守護として入部したので、その支配下に入った。その後、戦国時代に甲斐の武田晴信(のちの信玄)が信濃への侵攻を開始したので、それに備えて村井氏は林城の南面、塩尻方面の防御を固める必要に迫られ、埴原城を整備強化した。
しかし、天文17年(1448)小笠原氏は塩尻峠の戦いで大敗し、天文19年(1550)武田氏が松本平へ侵攻し、イヌイの城を落とすと、小笠原氏の林大城・深志・岡田・桐原山家の5城が自落したという。この「イヌイの城」が埴原城ではないかと考えられている。
なお、現在の埴原城の遺構は、厳重な防御施設の跡など、他の小笠原氏城跡との共通性がみられるため、武田氏滅亡後に木曽氏や上杉氏との軍事的緊張下にあった小笠原貞慶が改修したものである可能性が高いとされる。

構造と感想
埴原城は、筑摩山地の宮入山から西へ張り出した稜線の先端 標高992m、比高250mのピークを中心に北、西、南西、南に派生した4本の支尾根に跨って築かれた大規模な山城である。また、西麓の蓮華寺の北側には、御屋敷・梅屋敷・的畑など城主居館や家臣屋敷地が雛壇に並んでいる。
ピークに主郭を置き、その構造は東側背後に高土塁を伴った二段築成の郭を東西に二つ並べた構造をしており、西側の郭の周囲には石垣も積まれ、特に南面の二段石垣は良好な残存状態である。主郭の背後となる東側の尾根続きは巨大な堀切が入り、さらに尾根筋に100m余にわたり空堀が穿たれ、南北両斜面には畝状竪堀が施されている。横堀の西端は竪堀となり南斜面を下り、東端には堀切が入り、堅固な防御構造となっている。
主郭の西端部から北に伸びる支尾根は、堀切、 4、5段の段郭、 堀切、 また4、5段の段郭と続け、下部の段郭群は下端の堀切から横堀がを取り巻く様に伸びている。さらに堀切の下に二重堀切が入っている。
主郭西端部から南西へ降る尾根には、6段の段築が続き、その下方に南側に土塁を付帯させた二郭を構えている。段築の4段目は、東に50m余伸びた帯郭で、主郭西側郭の南虎口からの城道が下ってきている。この城道は、主郭の東端部から南に伸びる支尾根の手前で西に折れ、二郭下を通る。二郭下から西と南西に伸びる支尾根を下って行く。西支尾根は大手筋とされる。両支尾根とも段郭や堀切が麓まで続いている。
南支尾根には尾根筋沿いに3条の竪堀が下り、その下方に6重堀切が施されている。
南と南西に伸びる支尾根間の谷には、水の手の「亀ノ井」があり、谷を塞ぐ大規模な石垣を積み水の手郭を構築している。この石垣も良好な残存状態で、見応えがある。また、見晴らしにも優れている。

道 案 内
松本城の南東6.9km程に位置している。
松本城の東200m程の所にある国道143号の城東二丁目交差点を東へと県道67号線に入る。350m程先で女鳥羽川を渡り二つ目の信号交差点の清水一丁目交差点で右折し、南方向に740m程行くと あがたの森公園交差点に至る。ここを直進して県道63号線に入り、更に500m程南下すると筑摩神社に突き当たる。そこで左折し直ぐに右折し、また南に4.2km程行くと左手に中山小学校がある。その先の中山小学校南交差点を直進し、620m程行くと道が右に大きくカーブする。そのカーブの終わり付近に「蓮華寺入口」の標識と「埴原城入口」の碑や埴原城の説明板がある。そこで左折し、300m程東に行った「蓮華寺」の西に登山者用駐車場がある。
北に向って道なりに行くと「御屋敷跡」があり、そこから北東に登って行けば、西尾根途中の堀切に辿り着く。後は右手の尾根筋に沿って登れば主郭部に至る。

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背後の堀切               背後南面の畝状竪堀

 
背後尾根筋の空堀          化粧水の水場

 
帯郭            二郭

 
三郭                   三郭南下の堀切

 
水の手       亀ノ井の石垣

 
西支尾根の段郭            南西支尾根の堀切