山家城  No20202−12 (やまべじょう)       

主郭北方向 主郭東面の石垣

城郭の概要                  
別  名 : 中入城
所在地 : 松本市入山辺字中入
築城年 : 鎌倉時代末
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、石垣、虎口、
訪城日 : 平成24年10月19日

歴   史
山家城は、鎌倉時代末に地頭の山家氏が築城したと伝えられる。
山家氏は、元弘元年(1331)に徳雲寺を創建した諏訪氏一族の神為頼の子孫が山家氏を称したとされ、文明12年(1480)信濃守護小笠原長朝に攻められ、翌年の戦いで諏訪氏の支援を受けたが滅亡している。
その後、永正2年(1505)頃に小笠原氏の同流である折野薩摩守昌治が播磨国より来住し、小笠原貞朝に属して山家城を居城とし山辺氏を称した。折野山辺(山家)氏は、昌治の後、越前守昌寛、源十郎昌実、藤九郎昌矩と続き、天文19年(1550)武田晴信が小笠原長時を林大城に攻めると、小笠原氏を見限り武田氏に降り、以後、昌矩は武田氏に従い、川中島合戦での戦功を賞されている。
しかし、天正3年(1575)長篠の合戦で討死し、武田氏滅亡後は山辺氏の消息も不明である。

構造と感想
山家城は、美ヶ原から西に張り出した尾根の中腹 標高1,057m、比高257mを頂点に西方の尾根筋に築かれている。尾根先端の徳運寺(旧徳雲寺)は、山家氏の居館であったと云われ、居館と詰城がセットになた典型的な戦国期城郭の構造をしている。
山城部は、雨明神社のある郭を中心とする「古い城郭」部分 と 後に増設されたと推測されている秋葉神社のある「奥の城」 との2地区に分けることができる。(宮坂武男氏の説)
「奥の城」は、「古い城郭」部分の東背後のより高所に位置し、比較的平坦な尾根上に大きな郭が設けられている。秋葉神社の鎮座する郭が主郭で、北西下に帯郭が付帯し、その下の緩斜面には短い竪堀が畝状に掘られている。主郭の北東側には堀切を隔て副郭、さらに東側尾根筋に4、5段の段郭が設けられ、東端の鞍部で堀切と土塁を伴った竪堀を入れ城域を区画している。副郭から北西に延びる支尾根にも3、4段の段郭が配され、その先には「ハ」の字に竪堀が入れられ、急斜面になっている。
「奥の城」と「古い城郭」間の鞍部は5条の堀切を穿ち防備を固めている。5条の堀切から北西斜面に落ちる竪堀は下方で1本にまとまっている。南東斜面に落ちる竪堀は西側の3本が下方で1本になっている。これらの堀切は、鋭く落差も大きく見応え十分である。
「古い城郭」は、5条の堀切を背にした主郭を置き、四囲には土塁を廻らし、東面と南面には見事な石垣が残り、東面の石垣は高さ約2m、長さ約20mにも及んでいる。主郭から7、8m下の西裾から南裾に帯郭が廻り、帯郭から南、南西、北西に延びる支尾根に1〜3条の堀切を入れ護っている。ここが「古い城郭」の中核部である。
北西に延びる尾根が大手筋で1条の堀切を隔てて長大な二郭が配され、その先に5段の段郭が設けられている。段郭下から40m程の間隔で4条の堀切を入れ、南斜面は竪堀を谷下まで落としている。この尾根には堀切の下方に4段の段郭が設けられ、最上段に白山権現が鎮座している。これが大手郭の役割を担っている。
山家城は、規模も大きく、堀切や石垣、土塁など見事な遺構が残っており、非常にすばらしい山城である。

道 案 内
松本城の東7.7km程に位置している。
松本城の東200m程の所にある国道143号の城東二丁目交差点を東へと県道67号線に入る。1.4km程東進した惣社交差点のY字路を右手に進み、さらに県道67号線を2.5km程道なりに走ると右手に入山辺郵便局がある。そこから2.9km程先に徳運寺前バス停があり、その110m程先で左折して山側へ向うと道路脇に山家城の案内板が立っている。そこからさらに山の方を目指して果樹園の中をひたすら進んでいくと、最後に2台ほど車を停められるスペースがあり、そこ上に城の案内板が立てられている。
なお、徳運寺背後の墓地脇から西尾根を登ることもできる。

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主郭南面の石垣             主郭背後の堀切

 
主郭背後の堀切              主郭背後の二重竪堀

 
主郭の切岸と帯郭            帯郭の虎口

 
奥の城の主郭と堀切           奥の城の畝状竪堀

 
帯郭北西下の堀切           長大な二郭