林大城  No20202−15 (はやしおおじょう)       

主郭 主郭東側の土塁・石垣

城郭の概要                  
別  名 : 林城、金華山城
所在地 : 松本市大字里山辺字日向山
築城年 : 長禄3年(1459)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、石垣、虎口、土橋、井戸
訪城日 : 平成23年11月25日

歴   史
長禄3年(1459)小笠原清宗によって築かれたと云われるが定かでない。
信濃国守護であった府中小笠原氏は、はじめ府中(現在の松本)に構えた平地城館の井川城を拠点としていたが、清宗の曾孫 長棟が同族の松尾小笠原氏を屈服させ小笠原家惣領となった後に、拠点を山城の林大城に移したと云われる。
長棟の子・長時は、甲斐の武田氏と対立。天文14年(1545)武田晴信(のちの信玄)が福与城の藤沢頼親を攻めた際、福与城の後詰として竜ヶ崎城に陣取ったものの、福与城は陥落していまい、長時は林大城に撤退した。
天文17年(1548)2月武田軍が上田原の合戦で北信濃に勢力を張る村上義清に大敗すると、信濃の国人衆に動揺が広がり、7月10日には諏訪西方衆らが蜂起、これに呼応して長時は塩尻峠に布陣した。
これに対し、晴信は7月11日躑躅ヶ崎館を出陣したが、18日に漸く諏訪の上原城に入った。その夜のうちに密かに軍勢を塩尻峠に展開させ、翌早朝に一斉攻撃をかけると小笠原軍は1,000名の戦死者を出し敗退した。(塩尻峠の合戦)。
塩尻の合戦に勝利した晴信は、松本平侵攻の前進基地として村井城を築き、25日に上原城へ帰陣した。
天文19年(1550)年7月10日、晴信は村井城に入り、15日未ノ刻(午後2時頃)戦陣を整え、酉ノ刻(午後6時頃)わずかな戦闘でイヌイノ城(埴原城、イヌカイ城を指すとの説もある)を攻略すると、子ノ刻(午前零時頃)には長時の居城大城、深志、岡田、桐原山家の5城が自落した(『高白斎記』)。長時は一時平瀬城に入ったが、のちに村上義清を頼って塩田城に逃れた。
武田軍は19日深志城に入り、信濃国の支配拠点とすべく、駒井高白斎らによって鍬立て式が行われ、23日には惣普請を実施し、馬場民部少輔信房、日向大和守是吉が城将に任じられた。この時、林大城は武田氏により破却され、廃城となった。

構造と感想
林大城は、薄川の南(左)岸、大嵩崎集落の東側に南から北西へ張り出した尾根上に築かれている。また、大嵩崎集落を挟み西側に張り出した尾根上には林小城が、さらに、林大城の東側の倉橋集落を挟み北に張り出した尾根には水番城が築かれている。
林大城の築かれた尾根は、先端のピークの背後が細く括れ、独立丘状を呈している。この標高844m、比高190mのピーク に 北西を除く三方に内側に石垣を伴った土塁が廻る主郭を置き、その背後の南東側に後郭を、前面の北西側に堀切を隔て四周に土塁を廻らせた二郭を付帯させ、主郭部としている。主郭部の前後は堀切で区画し、特に背後の尾根には5条もの堀切を入れ、長大な竪堀も落とし、厳重な遮断を図っている。
二郭下の堀切を越えると緩やかな尾根が北西へと下っており、その尾根筋には約300mにわたり雛壇状に段郭を連ね、途中で堀切を入れ二つのブロックに区画している。段郭の下端にも土塁を伴った堀切を入れている。その下方へ130m程下ると小さな二重堀切があり、物見台である。
主郭から北東にも支尾根が延びており、二段の帯郭と井戸が設けてある。その下は二重堀切を入れ防御を固めている。
主郭部の郭は平坦で広く、居館的な要素が感じられ、小笠原氏の本城に相応しく、周辺の城砦とは趣が異なっている。

道 案 内
松本城の東南東4km程に位置している。
松本城の東200m程の所にある国道143号の城東二丁目交差点を東へと県道67号線に入る。1.4km程東進した惣社交差点のY字路を右手に進み、さらに県道67号線を1.1km程道なりに走ると兎川寺交差点に至る。同交差点を右手し県道297号線に入り、南に650m程行き金華橋を渡る。橋の南詰めの交差点の左手先に説明板があり、そこが麓からの登城口である。
車で上る場合は、同交差点を左折し川沿いの道に入り1.3km程東進すると右手に橋が架かっている。そこで右折し途中クランクを経て490m程を南下するとT字路があり右手する。西に180m程行った突き当りで左折し、100m程南下した右手に道標があり、林道への入口で、林道を終点まで行けば城跡に至る。

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二郭の南東方向           二郭南側の土塁

 
化粧水井戸        東尾根の二重堀切

 
主郭北虎口と帯郭        主郭と二郭間の堀切と土橋