塩田城  No20203-03 (しおたじょう)       

虎之口の石塁 虎之口の石塁

城郭の概要                  
別  名 : 古城
所在地 :上田市前山
築城年 : 建治3年
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、空堀、竪堀、虎口、井戸、
訪城日 : 平成23年6月5日

歴   史
塩田城は、建治3年(1277)鎌倉幕府執権の北条時宗の連署を務めた北条義政が隠退して信濃国塩田荘に館を構えたことに始まる。以後、国時、俊時と3代に亘り塩田北条氏を称し、この城を居城とした。元弘3年(1333)新田義貞を中心とする反幕府勢の蜂起に対し、塩田北条氏は一族挙げて幕府方として奮戦したが敗れ、幕府とともに滅亡した。
建武2年(1335)鎌倉幕府討幕の軍功として塩田庄は村上信貞に与えられ、以降、塩田城は村上氏の属城となった。天文17年(1548)の上田原合戦や天文19年(1550)年の武田晴信(のちの信玄)による戸石城攻め(いわゆる戸石崩れ)を撃退した際、塩田城は軍事拠点の一つとして重要な役割を果たした。
天文20年(1551)戸石城を武田方の国人・真田幸隆に落とされると、室賀氏をはじめとする村上方の諸将が晴信に寝返り、天文22年(1553)4月義清は諸城を攻略され、支えられなくなり越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り落ち延びた。5月、義清は景虎の支援を受けて反攻し、葛尾城を奪回して、塩田城に籠もったが、晴信に攻められ、反功から僅か3ヶ月で再び越後に落ち延びた。直後の9月、景虎は自ら兵を率いて川中島に進出、晴信は塩田城に本陣を置いて対峙した(第一次川中島の合戦)。信玄は飫富虎昌などの重臣を城将として配置し、北信濃侵攻の拠点とした。天正10年(1582)武田氏が滅びると、真田昌幸の支配下に入ったが、翌天正11年(1583)昌幸が上田城を築城し居城としたのに伴い、塩田城は廃城になった。

構造と感想
塩田城は、弘法山の二つの支尾根に挟まれた谷筋から北山麓に築かれており、東は神戸川の谷、西は龍光院、北は産川に囲まれた広い城域を持った山城である。
塩田城からは北への眺望が優れており、塩田平から室賀峠を一望でき、また、大門峠を越え南信濃から北信濃に通じる北国道と国府から関東方面に通じる東山道の交差する地点であり、交通の要衝地でもある。
城郭部への入口にあたる山麓には内堀が設けられ、その西端はL字に曲がり南に延び、所々に土塁も残っている。内堀を越え谷に入ると、中央に登り道があり、両側に雛壇状の屋敷跡が続いている。屋敷跡の上端は左上方から落ちる竪堀から続く横堀と石塁で区画され、その上方は急に斜度がきつくなり、道も東端に寄り、西側に段郭が設けられている。5段ほど上が虎之口と呼ばれる段で、東に延びる石塁が築かれており、石塁を迂回するように城道を屈曲させた枡形虎口となっている。枡形内の北西隅に井戸も残っている。最上段まで登るとやや広い段があり、北条国時墓と刻まれた墓碑が建っている。なお、谷筋の周りはU字状の尾根が取り囲み、東砦、西砦、山頂砦が置かれ、谷筋を護ったようである。
谷筋は、村上・武田氏段階において構築されたとされ、山麓の居館から展開した城であり、山城と云うよりは居館に近い構造を留めた城郭である。

道 案 内
上信越自動車道の上田菅平インターを降りて国道144号の西方向に入る。国道144号を2.1km程西進した中央東交差点で左折し国道18号に入る。国道18号を南に5.2km程行った大屋交差点で右折し国道152郷に入る。国道152号を440m程南下した大屋駅前交差点で右折し、さらに国道を2km程南下し北陸新幹線を潜る。そこから600m程南下した長瀬交差点で右折し県道169号線に入る。県道169号線を西に1.9km程行った北原交差点を直進して県道82号線に入る。県道82号線を西に3.9km程行った突き当りで右折し、北に150m程行ったT字路を西へ左折する。引き続き県道82号線を西に2.6km程行った東前山バス停の所の十字路を左折し細い道に入る。南に1km程行った突き当たりが城跡である。付近の個人宅の駐車場に入れさせて頂いた。

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内堀              最上段の郭と墓碑