上田城  No2020304 (うえだじょう)       

本丸の東虎口 本丸の水堀

城郭の概要                  
別  名 : 尼ヶ淵城、伊勢崎城、真田城、松尾城
所在地 : 上田市二の丸
築城年 : 天正11年(1583)
形  式 : 平城、崖端城
遺  構 : 空堀、水堀、土塁、石垣、櫓、復元門、
訪城日 : 平成23年6月5日

歴   史
小県郡の土豪小泉氏が築いた出城があった所に、天正11年(1583)に真田昌幸が築いたのが上田城である。
天正10年(582)3月に武田氏が滅亡した直後、昌幸は滝川一益の麾下となったが、6月の本能寺の変で織田信長が斃れ、一益が厩橋城を去ると沼田城をはじめ吾妻諸城を奪還し、旧領を回復した。一時、昌幸は北条氏政に臣従したが、徳川家康に接近、これに怒った氏政が上州の利根・吾妻郡を攻めるようになり、そこで昌幸は小県郡の土豪小泉氏の出城跡を取り立て、家康の支援も受けて上田城の築城を始めた。これに対し、上杉景勝は配下の飯山城将岩井信能を虚空蔵山城に出向かせ、築城を妨害している。
武田氏滅亡後にその旧領をめぐり、家康と北条氏政・氏直が甲斐や信濃、上野で対峙したが、天正10年(582)9月に和睦し、天正13年(1585)甲斐・佐久・諏訪を家康が領し、上州を北条領とすることが実施され、家康は昌幸に上州沼田領を北条氏へ明け渡すよう命じた。昌幸は「沼田領はわが父祖伝来の土地で、徳川の領地ではない」として明け渡しを拒否、家康と対立し、敵対していた景勝と天正13年(1585)年7月に和解した。
これに対し、家康は同年8月7000余の兵を上田城へ差し向けた。2000足らずの真田軍は伏兵や罠を仕掛けるなどの巧妙な戦術によって徳川軍を混乱に陥れ、大きな損害を与え撃退、天下に上田城と真田の名を知らしめた。これが第一次上田合戦である。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦で石田三成の西軍方に与した昌幸は、上田城に2,500の兵で立てこもり、東山道を西へ向かう徳川秀忠軍38,000を数日間も釘付けにし、関ヶ原の決戦に秀忠軍を遅参させた。
しかし、関ヶ原合戦は西軍の敗北に終わり、上田城は徳川の手で破却された。破脚後、上田城は東軍に加わった昌幸の長男沼田城城主であった真田信之に与えられたが、自らは城普請を行なわず三の丸に館を築き、居館とした。
元和8年(1622)信之は埴科郡松代に転封となり、替わって仙石忠政が佐久郡小諸より入封し、寛永3年(1626)幕府の免許を得て上田城の改修に着手したが、寛永5年(1628)忠政は病没し、城の普請は中断となった。現在、本丸に残る石垣や隅櫓は、このときに築かれたものと云われる。
その後、仙石氏に替わり松平忠周が出石より入封し、以後、松平氏が明治まで続き、廃藩置県後の明治7年民間に払い下げられ廃城となった。

構造と感想
上田城は、千曲川の分流尼ヶ淵の断崖上に築かれている。現在は、上田城址公園として本丸と二の丸が保存されており、本丸周囲には水堀も残っている。崖下に流れていた支流跡は広い無料駐車場になっており、河岸崖の下を歩くことが出来、南櫓や西櫓を仰ぎ見ると断崖に圧倒される。
城の構造は、尼ヶ淵を背にして断崖上に長方形の本丸を置き、7基の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられていた。東西に虎口が開き、一対の石垣が築かれ、櫓門と2棟の隅櫓が建っていた。この外に北東部の土塁上に2棟、北西部の土塁上に1棟の隅櫓が建ち、北西部の隅櫓は二の丸西虎口の正面に位置し、西側からの攻撃に備えていた。現在は、現存の西櫓と復原の南櫓・北櫓の3基に、東櫓門が建っている。本丸の三方は内堀が廻り、本丸北東隅は鬼門除けで隅欠けとなっている。
本丸を取り囲み二の丸が配され、二の丸東側と西側に堀の一部が残っている。二の丸東側の三の丸には堀に囲まれた藩主屋敷や中屋敷・蔵屋敷が構えられ、西側には小泉曲輪が配され、広大な捨堀や百間堀が廻らされていた。

道 案 内
上信越自動車道の上田菅平インターを降りて国道144号の西方向に入る。道なりに2.1km程行った中央東交差点で右折し国道18号に入る。国道18号を1.4km程西進し上田城公園跡入口交差点で左折する。南に向い上田城の横を通り、その先の坂道を下り、最初の天神2丁目交差点を右折し450m程走った右手が尼ヶ淵跡の無料駐車場である。

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西櫓・南櫓と河岸崖                 本丸の上段

 
                   本丸の土塁

 
本丸東虎口石垣の真田石            本丸の抜け穴井戸