飯山城  No20213-03 (いいやまじょう)       

本丸の枡形 本丸北面の石垣

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 飯山市飯山
築城年 : 永禄年間(1558〜70)
形  式 : 平山城
遺  構 : 石垣 堀・石垣・復元門・ 石垣、土塁、水堀、碑、
訪城日 : 平成26年10月26日

歴   史
飯山城の築城者・築城時期とも特定されていないが、もと常盤牧(かつての官牧)一帯を領有していた泉氏の居城とも云われている。
泉氏は戦国時代に入ると中野の地に勢力を誇った高梨政頼の配下となり、その正頼は北信濃に進出する甲斐の武田信玄に圧迫され飯山城に退去し、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)に援軍を求めた。こののち、飯山城は実質的に高梨氏の本城となり、越後の長尾氏の庇護下に入った。
永禄4年(1561)の川中島の戦いののち、信玄が北信濃に深く侵入した。そこで謙信は永禄7年(1564)頃、飯山城を大々的に改修して、旧城主の泉弥七郎を城主とし、桃井伊豆守義孝、加地安芸守春綱らの援軍を駐屯させている。
天正6年(1578)3月、謙信が死去し、養子景虎と景勝とが跡目争い(御館の乱)を起こし、翌年、景勝が勝利した。こののち、飯山城は景勝に与した武田勝頼が領するところとなるが、天正10年(1582)武田氏が滅亡し、代わって織田信長家臣の森長可が城主となった。
しかし、天正10年(1582)信長が本能寺の変で斃れ、長可は海津城(後の松代城)に退き、飯山城は景勝の持城となり、景勝は御館の乱で戦功のあった岩井信能を城代とし、天正11年(1583)9月には、その信能に飯山城の修築を命じている。
慶長3年(1598)景勝が会津に転封になり、飯山城には石川光吉、森忠政らのが入り、その後も関、皆川、堀、佐久間、松平、永井、青山の諸氏がめまぐるしく入れ替わり、享保2年(1717)に城主となった本多氏が幕末まで続いた。

構造と感想
この地は、北信濃北半の中心地で、盆地の中央を千曲川が流れ新潟県に通じており、西方は関田・斑尾の山地を隔てて新潟県の頸城平野に続く、軍事交通の要衝地であった。飯山城は盆地の北辺にあり、千曲川西岸に面した独立丘上に築かれた平山城である。
構造は、断崖と千曲川を背にした丘の南端に本丸を置き、北に向かって二の丸、三の丸を階段状に配した梯郭式で、「後ろ堅固の城」である。西側は傾斜がやや緩く帯郭と西ノ丸が設けられている。麓の北側と西側に外郭を設け、これら全体を一重の濠で取り囲んでいる。
大手からの城内道は、南側の南大手門を入り、西ノ丸に復元された南中門を潜り、弓道場前に礎石が残る南中門、三の丸、二の丸、本丸へと至るルートであった。
現在、飯山城の主要部は城山公園として整備され、本丸は神社の境内、二の丸は広場となっており、その本丸と二の丸の間に見事な枡形虎口と石垣が残り、丘の南面から東面の断崖は急傾斜で迫力があり、近世部分と中世部分の城造りを味わえる。

道 案 内
上信越自動車道の豊田飯山インターを降りた豊田飯山インター入口交差点を右折し国道117号に入る。国道を北東に5.8km程行くとY字路があり右手の飯山バイパスへ入る。飯山バイパスを2.3km程北上すると左手に飯山城が見える。その300m程手前の中央橋西交差点で左折し、県道97号線に入り、320m程西進した本町交差点を右折する。300m程北上した仲町交番前交差点で右折する。160m程東進して左にカーブし坂道を上がると左手に市民会館があり、付近に駐車する。右手上方が城跡中心部である。

TOPへ 戻る



 
復元門                 東面の断崖