松代城  No20201-08 (まつしろじょう)       

本丸の南門 本丸の戌亥櫓台

城郭の概要                  
別  名 : 海津城
所在地 : 長野市松代町松代
築城年 : 永禄3(1560)
形  式 : 平城
遺  構 : 石垣、土塁、堀、復元櫓門、復原高麗門、復元木橋、
訪城日 : 平成26年10月28日

歴   史
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との川中島合戦の際に、前進基地として築いた海津城がその始まりと云われており、永禄3年(1560)頃に普請が完了したと伝えられ、高坂弾正が城将として入った。
天正10年(1582)武田氏が滅亡すると織田信長の家臣森長可が城主となったが、直後に織田信長が本能寺に斃れ、上杉景勝の支配するところなり、須田満親が城代となった。
慶長3年(1589)上杉景勝の会津転封により田丸直昌が城主となった。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦前には森忠政が城主となり、城名を「待城」に改め、二ノ丸、三の丸を整備し、土塁を石垣に修築したと考えられている。忠政は関ヶ原の戦功により美作津山に移り、慶長8年(1594)に家康六男の松平忠輝に属し「松城」と改称、花井吉成が城代となったが、元和3年(1617)改易になった。その後、甥の松平忠昌、酒井忠勝が入封し、元和8年(1622)には信州上田より真田信之が10万石を領して入封し、明治を迎えるまで真田家が続いた。

構造と感想
松代城は、北西を流れる千曲川を天然の堀とし、残る三方を山に囲まれ、その間を流れる関屋川、神田川などを外堀として取り込んだ堅固な平城である。
往時は、方形の本丸の南東、南西、北西の三隅に二重の櫓が建ち、西を除く三方に虎口を開き、南側の正門と北側の北不明門は桝形虎口となっていた。北を除く三方を内堀、二の丸、外堀で囲まれ、二の丸南側に桝形の南門が開き、外堀を隔てた対岸に丸馬出を構え、前面に三ヶ月堀と半円形の三の丸を設けていた。三の丸の東側には桝形の大門を開き、城の東側から南側には外縁を堀に囲まれた武家屋敷が広がっていた。三ノ丸の西側には花ノ丸があり、明和2年(1765)の洪水被害の後、本丸より御殿が移された。北不明門の外は紅葉の馬場が東西に延び、本丸と二の丸との間は東から外堀、本丸石垣、二の丸土塁、外堀によって区画されていた。馬場の南西端は花ノ丸へとつながり、馬場と花ノ丸の北側から西側も新堀と百阮xで囲繞されていた。
しかし、明治4年(1871)の廃藩置県令の翌年にで松代城は廃城となり、本丸・二の丸・三の丸の建物は取り壊され、真田家の邸宅として取壊しの難を免れた花の丸御殿も同6年(1873)不審火により灰燼に帰した。その後、開発の手が本丸まで及び、土塁や石垣も崩され、殆んど旧態を失っていたが、発掘調査や絵図資料により、享保2年(1717)の火災以降に再建された「松代城」を目指して平成7年から平成16にかけて復元整備が実施された。これにより本丸、二の松、馬場の石垣、土塁、堀、門、木橋などが再現され、江戸時代の雄姿を取り戻しつつある。今後も丸馬出の復元などが検討されており、期待されるところである。

道 案 内
上信越自動車道の長野インターを降りた直ぐの長野インター交差点を左折し県道35号線に入る。県道35号線を540m程南下した長野インター南交差点を右折し国道403号に入る。国道を403号を南に550m程行ったところで左折すると「海津城跡公園」の北無料駐車場がある。

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詰橋門(高麗門)と太鼓門(櫓門)           北不明門の桝形


本丸東側の内堀と            二の丸の土塁


北より望む