平瀬城  No20202−05 (ひらせじょう)       

主郭の東方向 主郭東側の二重堀切

城郭の概要                  
別  名 : 平瀬山城
所在地 : 松本市島内下平瀬  
築城年 : 戦国時代 
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、横堀、石垣、虎口、
訪城日 : 平成24年10月21日

歴   史
平瀬城の築城年代は定かではないが、平瀬氏によって築かれたと云われる。平瀬氏は、犬甘城主 犬甘氏の一族で、鎌倉幕府滅亡後に守護 小笠原氏に仕え、主家と運命を共にしている。
天文19年(1550)武田晴信が信濃府中(松本)に侵攻し、「イヌイノ城(埴原城)」を攻略すると、林城をはじめ5城が相次いで自落した。この際、守護 小笠原長時は居城 林城を捨てて平瀬城へと撤退し、後に長時は村上氏を頼って葛尾城へと逃れたが、平瀬城はその後も抗戦を続けた。同年10月晴信が砥石城で村上義清に大敗を喫すると、長時は帰還し、中塔城や平瀬城などに兵を詰めて武田軍に抵抗した。しかし、翌年10月24日晴信に攻められた平瀬城は落城、城兵204人が討死し、城主平瀬義兼は自刃して果てた。同月28日栗原左衛門(高白斎)が平瀬城の地割りをし、鍬立を行い、11月10日に原美濃守虎胤が城代として配され、小笠原氏の残党討滅の拠点とした。信濃平定がほぼ完了すると、兵站・統治の拠点が深志城に移り、平瀬城は廃城となった。

構造と感想
平瀬城は、犀川東岸に連なる丘陵から川に向かって張り出してきた隣り合う3つの尾根の先端部に築かれ、北から北城、本城、南城と並んでいる。
平瀬城本城が真ん中の尾根先端部に築かれ、大手に当たる南斜面の中腹に5、6段の段郭があり、根小屋であったと思われる。
先端部に仕切の低土塁と僅かな段差で三区画に分けられた主郭、二郭、三郭が置かれ、主郭の肩には石積が残っている。先端の三郭からは松本平東部を眼下に見下ろすことができ、また、北アルプスの山並みを眺望でき、美しい景色を楽しめる。
主郭の東側から北東の尾根筋には大小5条の堀切が連なり、その先に三角形をした四郭を設け、北側に横堀を巡らし、先端を竪堀で落とし守っている。四郭の北東側には大堀切を隔てて、五郭が構えられており、北東面に土塁を付帯させ、堀切とで城外との遮断を図っている。
主郭部の南西北の三方は急斜面で要害地形であるが、主郭の背後は緩やかな斜面となり、長く落とした竪堀で、背後からの回り込みを防いでいる。なお、主郭の背後方面は樹木が多く、やや見透しが悪いのが残念である。

道 案 内
松本市街方面から国道19号を北上すると右手を流れる奈良井川が犀川に合流し急に川幅が広くなる所があり、そこから790m程北上すると右手に細い道(小さな案内板あり)がある。そちらへ右折し50mで篠ノ井線を潜り、道なりに170m程行った突き当りの右手奥に平瀬城の説明板と二十三夜塔の石碑が建っている。ここに一台の駐車スペースあり。
説明板の右脇を沢伝いに150m程登って行き右手へ橋を渡る。渡って左手の谷筋を100m程入り、そこから左手の山道を登ると城跡に至る。

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登り口         三郭からの眺望

 
主郭肩の石垣          主郭・二郭間の仕切土塁よ虎口

 
五郭西側の堀切       五郭の土塁