亀岡城  No26206−04 (かめおかじょう)       

城址碑 外濠跡

城郭の概要                  
別  名 : 亀山城、亀宝城、霞城
所在地 : 亀岡市古世町
築城年 : 天正5年(1577)
形  式 : 平城
遺  構 : 石垣、天守台、堀
訪城日 : 平成21年9月27日

歴   史
「亀岡城」の名称は、この地の地名が明治2年(1869)に伊勢亀山との混同を避け「亀山」から「亀岡」へと改称されて以降のもので、元々の城名は「亀山城」である。
織田信長と将軍足利義昭の関係が不仲になるにつれて、丹波の有力国人である波多野秀治をはじめ、内藤氏、赤井・萩野氏、宇津氏等が信長を離反し、この動きに怒った信長は明智光秀に丹波攻略を命じた。
天正3年(1575)6月光秀は丹波攻めを開始し、亀山城に入城すると丹波の国人達の多くが和平工作に応じて馳せ参じ、同年10月国人衆に命じ萩野(赤井)直正を黒井城に包囲したが、翌天正4年(1576)1月八上城主・波多野秀治が離反し背後を突かれ、また、亀山城も秀治の弟・秀尚に奪い返えされ、撤退を余儀なくされ坂本城へと退いた。その後も同年2月と6月に丹波へ侵攻したがいずれも牽制のための一時的な侵攻であった。
天正5年(1577)10月亀山城に波多野秀尚を攻め、これを落城させ、同城を丹波攻略の拠点とするため大改修に着手した。
翌天正6年(1578)3月前半、光秀は直正が死去したのを契機に本格的に丹波攻略に乗り出し、まず八上城を兵糧攻めにする包囲線を敷いた。その間にも7月園部城の荒木氏綱を降し、付近の諸城を落としていった。同年12月には二度目の黒井城攻めを開始したが、直正の跡を継いだ幸家が但馬から急ぎ帰城したため、光秀は再び退き多紀郡の本目城に逃れた。
天正7年(1579)3月光秀は攻勢に転じるため、大軍を持って亀山城を出陣し、5月に八上城の支城氷上城を抜き、6月1日ついに八上城を開城させて城主・波多野秀治兄弟を捕縛、続いて宇津氏の宇津城も下し、前年に背反した丹後守護職・一色氏を弓木城に滅亡させた。さらに丹波に取って返し、疲弊した黒井城を強襲、8月9日にこれを落城させ、光秀は足かけ5年を費やして漸く丹波攻略を成し遂げた。
この功績により天正8年(1580)には丹波一国(約29万石)を加増され計34万石を領し、さらに、南山城も与えられている。亀山城を本拠に周山城を築城、横山城を修築して福智山城に改名、黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れ、丹波支配を固めて行った。
天正10年(1582)5月光秀は信長に中国地方への出陣を命じられ、安土城から亀山城に戻って出陣の準備を整え、6月1日に亀山城を出発。老の坂を下ると にわかに桂川から東に転じ、「敵は本能寺にあり」と軍勢に伝え、京都本能寺に宿泊していた信長を攻め、信長は自刃し果てた。これが世に名高い「本能寺の変」である。
信長の死の報せを受けた羽柴秀吉は備中高松城から軍勢を大急ぎ返し、天王山の麓の山崎で光秀軍と激突し、これを打ち破り、亀山城は信長の子で秀吉の養子である秀勝に与えられた。次いで天正19年(1591)小早川秀秋が亀山城主となり、三層の天守を五層の大天守に改築した。
徳川時代になって慶長14年(1609)岡部長盛が3万2千石で亀山城主となる。徳川幕府は山陰の要として亀山城を重視し、慶長15年(1610)から天下普請で大修築を行なった。
岡部氏の後、亀山城主はめまぐるしく交替するが、寛延元年(1748)松平信岑が丹波篠山から5万石で入城、以後松平氏8代で明治維新を迎えた。
その後、亀山城は明治10年(1877)に天守閣が解体され、鉄道施設のために本丸の石垣を残して多くの石材が運び去られた。また、城跡が大本教団の管理するところとなり、大正10年および昭和10年の2回にわたる大本教弾圧によって、城跡も甚大な破壊を受けたが、最高所の天守台付近の石垣は復元されている。

構造と感想
城跡には、大本教の本部が置かれており、勝手に中には入れないようだが、本部受付にお城の見学を申し出ると見学させてもらえるようだ。
私は、日暮れ時に少しの時間立ち寄っただけなので、外周を巡っただけで中には入っていないのが残念である。
古写真に写る五層の天守が威容を誇っていた天守台が、大本教の聖地となっており、立ち入ることは出来ないものの、下から眺める天守台は見事なようである。
本丸跡と二の丸跡は、教団のよる管理が行き届いているようで、復旧され整然とした石垣が見事なようである。また、三の丸跡に残る池が往時の内堀の名残りで、城跡の北側には外堀の一部が残っており、外周にも城らしい雰囲気が漂っている。 

道 案 内
JR山陰本線(嵯峨野線)「亀岡駅」から南へ約400mの大本教本部が城跡で、参拝者専用駐車場がある。

TOPへ 戻る