宇津城  No26104−03 (うつじょう)       

主郭南面の石垣 北端の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 宇都城
所在地 : 京都市右京区京北下宇津町
築城年 : 室町期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、石垣、堀切、虎口
訪城日 : 平成21年9月26日

歴   史
宇津城は、この地の国人領主宇都氏の居城で、宇都頼高が築城したと考えられている。
宇都氏は、嘉吉元年(1441)の豊後守頼顕に始まり、頼夏・頼高・頼重と続き、明応から弘治(1492〜1558)に至る約60年間、嵐山城主の伊達弘忠・弘季・正隆の三代と仇敵関係にあったが、将軍足利義晴の仲裁によって和解している。
大永6年(1526)宇都頼高は川勝大膳と共に細川高国に味方しているが、桂川表の戦いに敗れ、杉坂越を通り退却しており、この乱世に対し、本城の宇都嶽山城よりさらに山城の宇津城を築いたと考えられている。
天文年間(1532〜55)頼重の代には、山国御料所の貢租を妨げたが、松永久秀でも強大な宇都氏の力を押さえられなかったとされる。また、永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛した織田信長も永禄12年(1569)禁裏御料所である山国庄の返還を命じたが、これに従わなかった。これらにより信長は天正3年(1575)明智光秀に丹波・丹後の平定を命じ、宇津城は天正7年(1579)7月19日戦わずして開城、その後、光秀が宇津城を大改修すると共に、周山城を築き、平定した東丹波を支配した。

構造と感想

宇津城は、下宇津の八幡神社裏に向け北から張り出してきた尾根の南端ピークに築かれている。
構造は、頂部に主郭を置き、北に伸びる尾根筋に高さのある切岸を伴った二段の郭と大堀切を設け、主郭の南側下方には腰郭を付帯させている。その規模は、南北150m、東西30〜10m程で東丹波一円に勢力を張った宇津氏の本城としては小規模な城である。
主郭の南面と東面に虎口が開き、東虎口は石垣裾を下って北尾根の郭へと通じ、南虎口からは石積されたスロープの城道が腰郭へと下っている。主郭はやや台形状を呈し、北面に土塁が築かれ、その内側が凹地になっており、鉄砲を意識した造りとされる。北尾根は、鞍部で両側を削り落とし、高低差の大きい堀切としている。
城の南裾には大堰川が流れ、また、周山街道も城下を通り、宇津城は水陸の要衝を監視した城であった。


道 案 内
国道477号を西に向かって進み「京北宇津郵便局」を過ぎて100m程で北へと右折し府道364号に入る。府道364号線を道なりに1.5km程行くと右手に八幡神社があり、この神社の裏山が城跡である。神社の右手背後から急斜面を30分弱登ると城跡に至る。 付近の余白に駐車できる。

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主郭東側の石垣         主郭東虎口