周山城  No26104−02 (しゅうざんじょう)       

西尾根郭郡の高石垣 現地の縄張り図

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 京都市右京区京北周山町
築城年 : 天正8年(1580)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、石垣、天守台、堀切、桝形虎口、井戸
訪城日 : 平成21年9月26日

歴   史
足利義昭を奉じて永禄11年(1568)に上洛を果たした織田信長は、京の復興に努めるとともに、国人衆に対し横領していた禁裏御料所を返還すよう命じるが、京北の国人宇都頼重は信長の命令を無視し、義昭方に与したため、天正3年(1575)明智光秀に丹波攻略を命じた。
天正7年(1579)明智勢は、宇津城を陥落させ宇都氏を滅ぼして東丹波を制圧。翌天正8年(1580)在地土豪の押さえと京と若狭を結ぶ周山街道の押さえの城として周山城を築いた。
明智光秀は丹波支配のため亀山城を居城とし、福知山城に明智秀満、黒井城に斎藤利三、八上城に並河飛騨守、そしてこの周山城に明智光忠を配している。
しかし、天正10年(1582)明智光秀は本能寺に信長を討つが、その後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ討死。光忠は自害し果てたため、周山城は廃城となった。

構造と感想

周山城は、旧京北町役場西方の城山(NHK受信施設がある山)山頂に所在し、東麓の周山街道を見下している。
構造は、山頂に主郭を置き、東、西、南に伸びる尾根上に階段状に郭を連ねる放射連郭式縄張りである。主郭には穴蔵を伴った天守台跡、周囲の石垣、南東隅の内桝形、虎口の両側から東郭へ下る石塁が残り、総石垣造りであったと思わせるに十分な遺構が残存している。西尾根の郭群や南尾根の郭群には、より良好な石垣が残存している。
主郭から西尾根へは急激に下るが、その間にも石垣石が散乱し、特に西尾根三段目郭の北西隅には良好な高石垣が見られ、また、その北側に石積み井戸も残っている。これらの遺構の状況から城全体が総石垣造りであったと思って間違いない。南尾根郭群の内桝形虎口も崩れてはいるが石垣を伴っており、石垣造りであったことは間違いない。
東尾根郭群は高低差の大きい段郭の南面に設けた虎口を南側斜面に設けた城道で繋ぐが、見事に横矢が効かされた構造となっている。
これらの遺構の状況から、この城は織豊系城郭の3条件を満たしている可能性が高いのでないか。


道 案 内
京都市内から国道162号(周山街道)を北進し、道の駅「ウッディー京北」に向かう。そこで駐車し、国道162号と477号の交差点から西150m程のT字路を右折れする。その先250m程の所で左に入り、後は西に向かって進めば登山道に至る。要所要所に案内板が設置されているので、確認して進めば城跡に至る。

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井戸跡           主郭西側切岸の石塁
 
東郭虎口と主郭を望む       東郭虎口と城道の折れ