No25208−02 多喜山城 (たきやまじょう)       

西虎口の石垣・石塁 櫓台の土塁

城郭の概要                  
主郭北側土塁
別  名 : 日向山城
所在地 : 栗太郡栗東町六地蔵
築城年 : 元亀年間(1570〜73)
形  式 : 山城(標高222.9m)
遺  構 : 土塁、石垣、櫓台、虎口
訪城日 : 平成23年2月19日       

歴   史
「栗太郡志」に奈良興福寺の地頭代によって築かれたと記されるが、現地に残る遺構は明らかに戦国末期のものである。
永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて近江に侵攻し、近江守護佐々木六角氏の支城の箕作城を一日にして落とすと、これを見た観音寺城の六角承禎・義弼父子は夜陰に紛れ城を脱出し、甲賀郡へと逃れた。
元亀元年(1570)5月になると信長と不和となった足利義昭の呼び掛けに応じ、反信長勢の一翼を担うようになり、六角氏が野洲川づたいに西上し、石部口に拠点を作り信長方への圧力を強めた。また、これに呼応して湖南の一向一揆も蜂起し、両者は浮気城守山城金ヶ森城など野洲川流域の各地で信長勢と戦いを繰り広げた。
この元亀の争乱に際し、六角氏の動きを監視し、対峙するために信長方によって多喜山城は築かれたと推測されているが、詳細な歴史は不明である。

構造と感想
多喜山城は、野洲川や東海道を眼下に置き、石部口まで見通せる日向山山頂に築かれてる。西麓の駐車場より「ふるさと創生事業」で整備された721段とされる石段が延々と山頂まで続き、山頂の城跡一帯は、樹木が切り払われ、眺望の開けた広場となっている。
遺構は、全体でも東西150m×南北50mの規模で、東端の南北30m×東西50mの主郭から西側に小規模な三段の段郭を付属させた連郭式の山城である。主郭は四囲を土塁が囲繞し、北東隅に中央を穴蔵のように掘り窪めた約20m四方の櫓台、東と西面に虎口が開いている。特に西虎口は石垣で構築されており、今も残欠が見られる。西から南端の城道を登って来ると段郭から横矢を受け、突き当たりの正面は張り出して北に折れた主郭の土塁、城道は突き当たりを左に折れて手前の石塁との間を通り抜けて主郭内へと通じる複雑な構造をしている。東虎口も同様に主郭からの横矢を受けながら左に折れて櫓台と土塁の間を通り抜けて主郭内へと入る。この虎口が最も見応えがあり、また、良好に残っている遺構である。

道 案 内
名神高速栗東インターを下りて取付高架道路を国道1号方面に270m程走ると県道55号線に下りるランプがあり、左手に下り、右折して県道55号線へ出る。県道55号線を東に200m程行き手原東交差点を左手方向に進み県道116号線に入り、東に道なりに1.9km程走り突き当たりのT字路を左折する。北170m程先の日向山バス停のあるY字路を右手方向に入り、130m程行った右手の石段を上った頂上が城跡である。石段下に駐車できる。

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