竹中氏陣屋  No21361−02 (たけなかしじんや)       

大手櫓門と重治公像 竹中重治・重元公の墓

城郭の概要                  
別  名 : 岩手城、竹中陣屋、岩手陣屋
所在地 : 不破郡垂井町岩手
築城年 : 天正16年(1588)
形  式 : 平城(陣屋)
遺  構 : 石垣、堀、櫓門、土塁、虎口
訪城日 : 平成26年5月5日

歴   史
天正7年(1579)竹中半兵衛重治は、羽柴秀吉による播磨三木城攻めの陣中にて36才の若さで病没した。その際、嫡男・重門はまだ幼く秀吉の元で養育され、菩提山城は一族の竹中重利が守った。重門が成長し岩手に戻り、天正16年(1588)菩提山東麓に平城の岩手城(のちの竹中氏陣屋)を構え、山城の菩提山城を廃したとされる。
重門は、天正12年(1584)11歳で小牧長久手合戦に従軍し、天正16年(1588)従五位下丹後守に叙任され、翌天正17年(1589)美濃国不破郡で5千石を与えられた。天正18年(1590)には小田原征伐に従軍、文禄元年(1592)の文禄の役では肥前名護屋城に駐屯、慶長2年(1597)の慶長の役では軍目付として朝鮮へ渡海、戦後には河内国内に1千石を加増されている。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦では、西軍の犬山城の守備に召集され、郡上八幡城主稲葉貞通、黒野城主加藤貞泰、多良城主関一政らと共に犬山城に入城したが、犬山城主石川光吉に戦意はなく、東軍勢が城下に迫ると石川光吉は城を明け渡してしまい、重門ら残された援軍は井伊直政の仲介で東軍に属することとなった。
関ヶ原合戦においては、黒田長政と同陣で戦い、合戦後は伊吹山中に潜伏していた西軍の小西行長を捕縛する手柄を立て、徳川家康から直筆の感状を受け、加えて領内が戦場となったことで米千石を見舞として授けられた。この千石で築かれた外堀が、「千石堀」と呼ばれその一部が現存している。
関ヶ原合戦後は、所領の6千石(のち分知により5千石)を安堵され、幕府旗本として13代続いて明治を迎えている。

構造と感想
築城の当初は「岩手城」と呼ばれていたが、江戸時代に竹中氏が旗本身分に留まったため、陣屋と呼ばれるようになった。別名を竹中陣屋、岩手陣屋とも云う。
陣屋の周囲は、水堀と石塁や土塁で囲繞され、北面や東面には横矢掛かりの折れが入れられている。東面の中央に大手の櫓門が築かれており、平城の名残を色濃く残した陣屋である。
現在、その跡地は岩手小学校と民有地となっているが、北面の白壁の櫓門、その両側に続く石塁や土塁、その土塁は北西隅で折れて西へと延びている。南東隅には千石堀と呼ばれた水堀の一部が今も水を湛えて残っている。大手櫓門に向かって左手には、城址碑と竹中重治の像が建てられている。
昭和31年には岐阜県指定史跡とされ、状態よく保存されている。特に、櫓門と千石堀を中心とする大手付近は、絵になる景観である。

道 案 内
名神高速道路の関ヶ原インターを下り左斜めに国道365号に合流する。国道365号の合流から北西に190m程行った中野交差点で右折し県道56号線に入り、道なりに1.9km程行くと国道21号線関ヶ原バイパスの大高交差点に出る。右折して関ヶ原バイパスを1.5km程走った野上北交差点で左折し県道53号線へと入る。県道53号線を道なりに1.2km程行った長畑交差点で左折し県道257号線に入る。そこから680m程北上すると岩手小学校前で左手が城跡である。右手に駐車場が設けられている。

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千石堀        北面の石塁