黒野城  No21201−03 (くろのじょう)       

本丸の南東隅櫓と堀跡 本丸南西部の外枡形張出し

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 岐阜市黒野
築城年 : 文禄3年(1594)
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、堀、虎口、櫓台、土橋、石垣、礎石
訪城日 : 平成27年3月14日

歴   史
本丸の南面から東面の土塁
黒野城は、文禄3年(1594)に加藤光泰の嫡子貞泰によって築かれた。加藤氏は西美濃安藤家の一族で、土岐氏に従い、黒野を領してより厚見郡今泉橋爪に住した。光泰はその後、斎藤氏に仕え、のち秀吉に従って戦功を挙げ、甲斐国谷村城主として24万石を領したが、文禄の役で朝鮮へ出陣中の文禄2年(1593)に病没し、その子貞泰が後を継ぐが幼少であったため、翌文禄3年(1594)甲斐から美濃厚見・方県郡内4万石へと大きく削封された。その際、新たに築城されたのが黒野城であった。
貞泰は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に転じて本領を安堵され、慶長15年(1610)伯耆米子6万石へ移封となり、黒野城は僅か15年で廃城になった。なお、貞泰は、元和3年(1617)伊予国大州城に移り、名を左近太夫に改め、元和9年(1623)5月に没している。

構造と感想
黒野城は、長良川の北岸、岐阜市北西部に位置し、黒野台地の南端部に築かれた平城である。
現在、本丸部が良好に遺存されているが、それ以外は宅地や工場などになって、外郭の堀や土塁の一部、堀の痕跡とされる水路が辛うじて残るのみで、当時1km四方の規模であったとされる城域内の構造を現地で窺い知ることはできない。
しかし、一辺110mの方形プランで南西隅に虎口部が張出している本丸は、周囲に基底巾約25mの分厚く高い土塁、巾約15mの堀も完存している。土塁の北西隅と南東隅は外側に張出し天端が巾広くなっており、櫓台と評価されている。外桝形虎口の両脇は石垣で固められ、西に向け土橋が架かっている。桝形の南側土塁の消失とそこから南に向き架かる土橋は、戦後に改変されたものである。
この城は、江戸の初期に廃城になりながら、今日まで堅固で雄大な遺構が残っており、感激ひとしおである。

道 案 内
大垣から岐阜方面に国道21号岐大バイパスを来ると岐阜県庁前を過ぎた薮田交差点で左折し、県道77号線岐阜環状線に入る。北に2.5km程で長良川を渡り、さらに4.0km程北上した正木土居交差点で左折し県道78号線に入る。西に2.1km程行った右手工場の南西角の交差点を右折し、北に110m程行った右手が城跡である。工場と城跡の間を東に入った所に駐車場がある。

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