西高木家陣屋  No21342−01 (にしたかぎけじんや)       

往時の長屋門 埋門の石垣

城郭の概要                  
別  名 : 多羅城、多良城
所在地 : 大垣市上石津町大字宮
築城年 : 慶長6年(1601)
形  式 : 平城(陣屋)
遺  構 : 長屋門、石垣、埋門、墓所
訪城日 : 平成23年5月2日

歴   史
天正年間(1573〜93)か慶長年間(1593〜1615)の間に、関一政によって築かれた多羅城がその前身である。
関一政は、天正10年〜16年(1582〜88)まで多良を領していたが、豊臣秀吉の命で蒲生氏郷の与力大名として会津に移り、多良は大垣城主の支配地となった。
しかし、慶長6年(1600)の関ヶ原合戦直前に徳川家康によって多良に戻されたが、合戦後には父関盛信が領していた伊勢国亀山へ転封となった。代わって高木貞利(西家)が2千3百石、貞友(東家)が1千石、貞俊(北家)が1千石を拝領して入部し、翌慶長6年(1601)に西高木家陣屋を築き、かつての多羅城も一部を有事の際の詰城として残したとされる。また、東、北高木家もそれぞれ陣屋を設けている。
高木家は、清和源氏源頼親を祖とし、大和の高木村に住したことから高木氏を称したとされ、のちに伊勢国に移り、室町時代の中頃には高木貞利の父貞久が斉藤道三に仕え駒野城主になり、その後、織田信長、織田信孝に仕え今尾城主となったが、信孝没後に駒野城へ戻っている。
小牧長久手合戦では織田信雄に従ったが、天正18年(1590)豊臣秀吉により信雄が改易されると貞利も甲斐国主加藤光泰の許に寓居し、翌年に光泰より一族して8千3百40俵の知行目録を受けている。文禄4年(1595)家康に召され上総天羽、すず郡内にて1千石を賜り、慶長5年(1600)関ヶ原合戦では上杉攻めに活躍し、その翌年には加増され美濃石津郡に復帰を果たした。
この3家は交代寄合美濃衆と呼ばれ、大名格で3家が隔年交代で参勤交代を行った。また、寛永元年(1624)より濃尾三川国役御普請奉行を務め、その後水行奉行(美濃国、尾張国、、伊勢国の水利治水事業を行なう役目)にも任ぜられた。
宝暦治水と呼ばれる宝永4年(1754)から4年の歳月をかけて行われた木曽川流域の治水工事は薩摩藩主体で行われた難工事であったが、この治水工事にも高木家は参加している。
西、東、北高木家陣屋は明治元年(1868)まで存続し、西高木家陣屋の建物は天保3年(1832)に焼失したが、嘉永5年(1852)に表門が、明治29年(1896)に屋敷が再建されている。また、周縁部の石垣や文化12年(1815)に完成した埋門の石垣が残存している。陣屋北西隅に西高木家累代の墓も残っている。東高木家陣屋には蔵が現存している。
さらに、名古屋大学を中心に10万点をこえる古文書群が残され、近世幕藩領主の姿を現在に伝える全国的にも貴重な遺跡とされている。

構造と感想
西高木家陣屋跡は、多良盆地の牧田川と加龍谷川に囲まれた高台に築かれ、陣屋の東側に伊勢街道が通り、西側と北側は谷川へ落ち込む断崖で、自然の要害地形となっている。高台上に西高木家陣屋が、東側一段下を通る伊勢街道を隔て牧田川との間に東と北の高木家陣屋が構えられていた。
西高木家陣屋跡は北側に上屋敷、南側に下屋敷が配置され、上屋敷の西側一角には一族の墓地がある。陣屋東側には見事な周縁部石垣が残り、さらに東一段下に位置する埋門の石垣は完存しており迫力十分で見応えがある。なお、現在は旧上屋敷地に主屋と長屋門、土蔵が残るのみで、東と北の高木家陣屋に至っては、東高木家の往時の蔵と北高木家の一部石垣が残るのみとなっている。
西高木陣屋跡地の南側には、郷土資料館が設けられ、旗本高木家の歴史のほか、関ヶ原合戦での島津軍の敗走路に関する内容などが展示されているようである。また、「高木家文書」の中に各時代の屋敷絵図が残されており、陣屋の変遷が明らかされつつある。

道 案 内
東名高速道路の関ヶ原インターを下りて右折し国道365号に入り、南東に3.2km程行った牧田小学校南交差点を右折する。さらに国道365号を1.4km程南下し、和田橋南交差点で右斜めに直進する。牧田川沿いに南西に進み上石津第一トンネル、上石津第三トンネルを抜けて、その先1.4km程の上原交差点で右折する。西進して牧田川を渡り右斜めに坂を登った大神神社かた北に190m程行った左手上方が西高木家陣屋跡である。上石津郷土資料館前の駐車場を利用する。

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 東高木家の蔵
 

西高木家の東側石垣

東高木家と北高木家間の旧伊勢街道