大垣城  No21202−02 (おおがきじょう)       

天守と戌亥櫓 東門

城郭の概要                  
別  名 : 巨鹿城、麋城
所在地 : 大垣市郭町
築城年 : 天文4(1535) or 明応9年(1500) 
形  式 : 平城
遺  構 : 復興天守、門、石垣、堀、
訪城日 : 平成29年9月24日

歴   史
大垣城の創築は、明応9年(1500)土豪の竹腰尚綱が牛屋川(現在の水門川)東河岸にあった牛屋に築いたとする説と、天文4年(1535)美濃国守護土岐氏一族の宮川安定が大尻に築いたとする説がある。この当時は「牛屋城」と呼ばれていたとされるが、元々「大垣」は安八郡牛屋村大尻と呼ばれ、「大尻」は大垣の古名で、これを大垣城と呼ぶようになったのは、城の周囲に垣根を巡らしたことから「大尻」を改め「大垣」にしたとも伝えられている。
この大垣は戦略上の重要拠点であり、越前朝倉氏、美濃斉藤氏、織田信長、羽柴秀吉などによる争奪が繰り広げられ、城主は頻繁に入れ替わった。
永禄4年(1561)西美濃三人衆の一人氏家直元が大垣城の総囲いなどを整備し、慶長元年(1596)には伊東祐盛が初めて三階建ての天守を造営したとされる。なお、天守造営に関しては天正16年(1588)一柳直末が築いたという説もある。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦の際には、大垣城は石田三成率いる西軍に明け渡され、西軍の本陣が置かれたが、野戦のため西軍本隊が関ヶ原に移動すると、城内には福原長堯らの守将が残されていたが、西軍が関ケ原で敗北したため東軍に包囲され落城した。
落城後は、城番が置かれ石川氏3代、松平氏2代、岡部氏2代、松平氏1代の後、寛永12年(1635)戸田氏鉄が10万石で城主となって以降、11代続き明治を迎えた。
この間の慶長18年(1613)石川氏三代忠宗が二の丸石垣等の整備や西の水門川・東の牛屋川を使用した外堀で城下を囲む近世城郭大垣城を完成させた。元和6年(1620)松平忠良が四階建て天守に改築し、その後、戸田氏も隅櫓や城門、桝形虎口、馬出し等の整備を行った。

構造と感想
大垣城は、市街地と重なっており、殆どの遺構が消滅し、僅かに本丸付近と河川として残る外堀であった水門川に名残が残るのみである。
縄張り図を見ると、内堀囲まれた本丸と二の丸が並列に配置され、そのまわりに中堀、外堀を廻らした輪郭式構造である。東側から南側に掛けては、外郭の中央に堀を設けており、堀が四重になっていた。
本丸には天守や隅櫓、門などが残っていたが、戦災で惜しくも焼失してしまい、現在は、四層四階の天守と東と南の天守付櫓、丑寅櫓と戌亥櫓、そしてその櫓に付帯する多聞櫓が外観復元されている。
しかし、本丸周りの内堀が完全に消滅しており、せっかく建物が外観復元されているが、城跡の雰囲気があまり感じられない。
復興天守の中は郷土博物館となっており、本丸西側の内堀や竹の丸、中堀の跡は広場と小動物園になっている。
なお、東門は移築ではあるが現存門であり、城門の威厳が味わえる。
 
                  本丸の郭図          外堀跡 

道 案 内
名神高速道路の大垣インターを下りて国道258号の北方向に入る。国道258号を4.6km程北上した旭町交差点で左折し県道237号線に入り、西に800m程行った右手が大垣公園で、公園の奥に城跡が残る。

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