三木城  No28215−01 (みきじょう)       

復元土塀 天守跡

城郭の概要                  
別  名 : 釜山城、別所城
所在地 : 三木市上の丸町
築城年 : 明応年間(1492〜1501)
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、空堀、井戸、天守台、
訪城日 : 平成26年4月13日

歴   史
室町時代の後期、東播八郡の守護代となった別所則治が明応年間(1492〜1501)に築城したのが三木城で、以後、別所氏代々の居城となった。
天文7〜8年(1538〜39)に出雲の戦国大名尼子晴久に、天文23年(1544)には三好長逸や三田の有馬氏に攻められたが、落城は免れている。
五代目城主別所長治は、天正5年(1577)織田信長に播磨攻略を命じられた羽柴秀吉のもとに参陣したが、秀吉の言葉に面目を失い、毛利氏に通じ反旗を翻した。すると翌天正6年(1578)秀吉は三木城を取り囲む三十余の付城を築き、兵糧攻めにした。包囲は一年八ヶ月に及び、ついに天正8年1月17日別所長治は、城兵の助命と引き替えに自刃し、三木城は開城した。これが世に有名な三木合戦「三木の干殺し」である。
この城には、開城後も前野長康などが入城しており、城郭機能は維持されたようで、慶長5年(1600)池田輝政が姫路に入部すると、三木城には家老・伊木忠次が三万石で在城した。
元和2年(1616)には明石藩に編入され、元和3年(1617)一国一城令によって廃城となり、その資材は、明石城築城に使用されたと伝わっている。

構造と感想
三木城は、加古川の支流・美嚢川を天然の堀とし、その東岸の丘陵上に築かれており、周囲が断崖となっている姿から釜山城とも呼ばれた堅城である。また、京へ通じる湯山街道が走り、西国から京に上る近道として利用され、さらに、兵庫道を始め四方に通じる道が通り、美嚢川・加古川の水運とあいまって物流の要衝地でもあった。
現在、城の面影は殆ど残されていないが、当時の城は北西の本丸(上の丸公園)、南構(二の丸:図書館・美術館周辺)、新城・鷹尾山城(市役所周辺)さらに南方の宮ノ上要害(浄水場)からなり、南側は山と谷、他の三方を崖に囲まれた大城郭であった。
上の丸公園には、天守台やカンカン井戸、復元された塀、「辞世の句(今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば)」碑などがある。その白塀の外を見ると遥か下に商店街が軒を連ねており、断崖の高さに堅城の雰囲気を感じることができる。
鷹尾山の西方の雲龍寺には、別所長治と照子夫妻の首塚があり、雲龍寺と三木勤労者体育センターに挟まれた鷹尾山の山林内には土塁、堀切、土橋など土造りの城がよく残っている。その北側は谷筋で三木城中心部の外堀にあたる。

道 案 内
山陽自動車道の三木小野インターを下り右折して国道175号に入る。南に2.4km程行った別所町高木で国道175号バイパスを下りる。380m程で県道20号線の国道175号入口交差点に出る。右折して県道20号線を800m程東進した福井交差点で左折、さらに県道20号線を道なりに1.2km程進むと上の丸交差点があり、その120m程先を右折する。70m程で神戸電鉄を潜り道なりに150m行ったY字路を右に入り、突き当たりが本丸跡である。付近に駐車可。

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西側断崖


別所長治公石造


かんかん井戸
別所長治公夫妻首塚     鷹尾山城の堀切と土橋    鷹尾山城の土塁