犬山城  No23215−01 (いぬやまじょう)       

天守南面
木曽川上流側よりの眺め

城郭の概要                  
別  名 : 白帝城
所在地 : 犬山市犬山北古券65-2
築城年 : 文明元年(1469)
形  式 : 平山城
遺  構 : 望楼型三層四階地下二階複合式天守、復元櫓、復元門、石垣、堀、
訪城日 : 平成27年3月30日

歴   史
文明元年(1469)岩倉城主で尾張上四郡守護代である織田伊勢守家の織田敏広が弟・広近に命じ美濃・斎藤氏に備えるため木ノ下城を築城し小口城から移った際、この地に砦を築いたのが始まりと云われる。
天文6年(1537)織田信長の叔父である信康が木之下城を移し、この地に城郭を築いたのが犬山城である。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた背後が断崖で木曽川に落ち込む「後堅固の城」で、中山道と木曽街道、木曽川による交易を押さえる要衝として、戦国時代に攻防の要となった城郭である。
天文16年(1547)信康は、信長の父・信秀が美濃・斎藤氏を攻めた「稲葉山城攻め」で討死し、その子信清が城主を継ぐが、信長と対立したため攻められ甲斐に逃げ、元亀元年(1570)信長の家臣で乳兄弟の池田恒興が入城した。天正9年(1581)恒興は尼崎城へ移り、娘婿で信長の末子である織田勝長が城主を継いだ。勝長は翌天正10年(1582)「本能寺の変」で信長と共に討死し、織田信雄の家臣・中川定成が城主となった。
天正12年(1584)信雄と羽柴秀吉が敵対すると、城主・定成が伊勢救援中にかつての城主・恒興が犬山城を奪い取った。これを引き金に信雄・徳川家康連合軍は小牧山へ出陣、秀吉も対抗して犬山城へ入り、小牧・長久手の戦いとなったが、両者の和睦により犬山城は信雄に返された。
天正18年(1590)信雄が追放されると豊臣秀次が信雄の旧領である尾張・伊勢北部5郡を領し、その元で三好吉房が犬山城主とされた。次に美濃金山城主・石川光吉が城主となったが慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍に属して没落。翌年、清洲城主・小笠原吉次が犬山城の城主となり、天守に3、4階を付加したと伝わっている。
慶長12年(1607)家康九男・義直が尾張藩主になる際、犬山城主は付家老の平岩親吉に交代したが、慶長16年(1611)親吉は継嗣なく没し、その後6年間は甥の吉範が城主を務めた。そして元和3年(1617)尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、天守に高欄と唐破風を設け、現在の姿ができたと伝わる。成瀬氏は城主を幕末まで世襲し、明治4年(1871)廃藩置県で愛知県の所有となり、天守以外の建物のほとんどが取り壊された。

構造と感想
犬山城は、木曽川南岸(左岸)の標高85mの城山に築かれている。
城山の北側は断崖で木曽川に落ち込み、その頂部に天守を擁する本丸が置かれ、典型的な「後堅固の城」となっている。本丸から南に下る大手道の東側に杉の丸、桐の丸を、西側に樅の丸を階段状に連ね、その入口に黒門が構えられ、さらに南側に松の丸(二の丸)、三の丸を配した連郭式縄張りである。
現在は、現存する建物は天守のみで、門や櫓は復元である。また、黒門より北の城山には空堀や石垣、郭が完存に近い状態で残されており、見所が多い。特に木曽川辺りより眺める望楼型天守の姿は美しく飽きることがない。また、天守からの眺めも抜群である。松の丸は、神社や道路の設置によりやや改変を受け、三の丸は旧状をあまり留めていない。
なお、市内の瑞泉寺(犬山市犬山字瑞泉寺)の山門は犬山城の内田御門を移築したものと伝わる。

道 案 内
名神高速道小牧インターを下りて左折し、国道41号を北の犬山方面に向かう。犬山市に入って国道は高架となるが側道へ入り350m程行った五郎丸交差点で左折する。県道27号線に入り北に3.4km程行くと木曽川に架かる犬山橋に至る。橋の南詰めを左折し580m程川沿いを走り、左にカーブし道なりに坂を上っていくと犬山城の前に出る。その先に有料駐車場がある。

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文元5年(1740)絵図の写し

 
木曽川と鵜沼城を望む       中央が本丸門

 
地下1階         上段の間

 
三階破風の間         西側の空堀

 
黒門跡         小銃櫓と鉄門

 鉄門(本丸門)         見晴門(七曲門)跡

 
本丸東側の石塁         対岸よりの眺め