小口城は、長禄3年(1459)織田遠江守広近によって築城された云われる。文明元年(1469)広近は木之下城を築いて居城を移したが、文明7年(1475)息子の寛近に家督を譲って小口に戻り、小口城の近くに徳林寺を再興し、更に隠居所(現在の妙徳寺)として「萬好軒」を造り、亡くなるまで居住した。「萬好軒」は、広近の遺命に基づき、明応元年(1492)織田敏定によって吉祥山妙徳寺と改められている。
文明元年(1469)以降の小口城は木之下城や犬山城の支城として残されたが、永禄年間(1558〜6)に織田信長の軍勢によって攻め落とされ廃城となった。その後、天正12年(1584)小牧・長久手の戦で一時的に羽柴秀吉方の砦として再興され、稲葉良通が布陣している。
なお、『信長公記』によれば、信長が小口城を攻略した頃の城主は「中嶋豊後守」となっており、余野神社には「謹奉…中嶋佐兵衛尉」と彫られた鰐口があることから、16世紀後半には中島氏が小口とその周辺を治めていたと考えられている。
ところで、初代城主である広近は、尾張国守護・斯波氏の守護代であった織田氏の初期の人で、守護代であり岩倉城主の兄・敏広を補佐すべく、小口城や木之下城を拠点に美濃の勢力に対抗し、尾張北部を治めていた。広近は、地方の武将でありながら実力者で、『文正記』には、文正元年(1466)大軍を引き連れ、主君である尾張国守護斯波義廉を助けるために上洛したとあり、また、『親元日記』には、広近が一族と共に将軍家(足利義政と妻の日野富子)に進物を贈った旨が記されている。
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