後瀬山城  No18204−04 (のちせやまじょう)       

主郭北虎口 主郭南方向

城郭の概要                  
別  名 : 武田氏城
所在地 : 小浜市伏原
築城年 : 大永2年(1522)
形  式 : 山城 
遺  構 : 石垣、土塁、堀、堀切、竪堀、土橋、虎口、
訪城日 : 平成27年5月10日

歴   史
大永2年(1522)若狭守護武田氏の五代大膳大夫元光が築城し、その後、信豊、義統、元明と続く若狭武田氏の四代46年間の居城となった。
しかし、重臣の反乱や一族間の内紛が続き、その基盤は不安定で、永禄11年(1568)義統の急逝により元明が守護職を継いだ頃にはすでに支配能力は無く、同年 越前の朝倉義景の侵攻を受け、元明は拉致され一乗谷に軟禁された。これにより若狭武田氏は実質上 滅亡となった。
天正元年(1573)義景が織田信長に滅ばされ、救出された元明は信長の旗本となるが、本領であった若狭国は返還されなかった。後瀬山城主には佐和山城主の丹羽長秀が任命され、城の拡張や整備を行ったと考えられている。
天正10年(1582)本能寺の変で信長が横死すると、元明は明智光秀に与して佐和山城を落としたが、羽柴秀吉との山崎合戦で光秀が討取られ明智氏が滅亡すると武田氏も滅びた。
秀吉が天下を掌握すると後瀬山城には浅野長政や木下勝俊が入り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、若狭一国を拝領した大津城主の京極高次が小浜城を築城したため後瀬山城は廃城になった。

構造と感想
北麓の丹後街道を見下す標高168mの後瀬山山頂に主郭を置き、南西側に巾広い空堀を隔て西郭が付帯させている。西郭は昭和63年度に発掘調査され、礎石を伴う建物遺構の検出や多数の茶道関係の遺物が出土し、山上御殿跡と推定されている。西郭西方の尾根続きや主郭の南東斜面には数本の長大な竪堀が入れられている。
主郭より北に延びる稜線上には400mに亘り階段状に小郭が連なり、八幡神社の背後にまで達している。また、主郭の北西 妙興寺に向かって下る枝峰にも同じように小郭が連なり、城外側となる南西側の斜面には無数の畝状竪堀や大規模な竪堀を穿ち、西方に対する防御を固めている。
この八幡神社と妙興寺の間にある小浜小学校跡と空印寺を敷地とする東西110m、南北120mの南を除く三方に二重の堀を巡らした堅固な守護館である武田氏館が構えられていた。
現在は、八幡神社から妙興寺の北麓からの登城路は無く、北東山麓から主郭に鎮座する愛宕神社への参道が設けられており、これを登ることになる。北に延びる稜線の途中に出て、階段状の小郭を経ながら主郭へと至る。途中、明瞭な堀切や土橋が見られ、主郭の北虎口周辺や東側面には石垣がよく残っている。主郭の西側から南側には「L」字の石塁が築かれているが、江戸期の構築だそうだ。主郭の南西には空堀を隔て土塁が巡る西郭(山上御殿跡)がある。空堀には主郭側面から崩れた石垣石が散乱している。西郭を南西へ進むと堀切や竪堀が見られる。見応えのある遺構が多く残り、訪城の甲斐があった。

道 案 内
舞鶴若狭自動車道の小浜インターを降りた小浜IC交差点を直進し県道267号線に入る。県道を267号線を640m程南進した小浜IC口交差点で右折し国道27号に入る。国道27号を西に1.9km走った後瀬山トンネルの120m手前の後瀬山東交差点で右折し細い道に入る。70m程先で左折し路地を70m程入ると右手に愛宕神社への階段があり、そこが登城口である。対面の空地に駐車可。

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山上御殿跡        
山麓の居館跡  


北稜線の段郭         主郭東側面の石垣


 主郭・西郭間の空堀                西郭            


南端部の堀切と土橋                 登り口