小浜城  No18204−03 (おばまじょう)       

天守と小天守台 本丸の西面

城郭の概要                  
別  名 : 雲浜城
所在地 : 小浜市城内1丁目
築城年 : 慶長5(1600)
形  式 : 海城
遺  構 : 本丸、石垣、天守台、櫓台、虎口、
訪城日 : 平成27年5月10日

歴   史
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに際し、近江大津城主の京極高次は西軍大谷吉継の北陸方面軍に加わるため越前東野まで進軍したが、大谷吉継が北陸から美濃へと転進すると、高次は海津から琵琶湖を渡り大津城に帰陣した。ここで東軍に寝返り3千の兵で籠城し、西軍の毛利元康を大将とする西軍1万5千を迎え撃った。
しかし、大津城の南にある長等山から城内に大砲を打ち込まれ、関ヶ原での本戦前日に降伏開城し、高野山に蟄居した。高次の大津城籠城により、西軍1万5千は関ケ原での本戦に間に合わなかった。
戦後、この籠城戦の功績が認められ、若狭小浜8万5千石を拝領し、一旦は若狭守護武田氏の居城であった後瀬山城に入ったが、翌慶長6年(1601)雲浜の海浜地に小浜城の築城を開始した。
寛永11年(1634)京極忠高が出雲松江へ移封となり、替わって武蔵川越より酒井忠勝が11万石で入封した。その時、小浜城は石垣を中心とした惣構と若干の館舎が建てられているに過ぎなかった。
忠勝は、翌12年から石垣の修築と天守の建設に取りかかり、寛永13年に天守を完成させ、寛永19年(1642)百闍エの虎口、枡形、石垣などを構築して一応の完成を図った。
以後、酒井家14代の居城として明治まで続き、明治4年(1871)の廃藩置県に際して城内に小浜県庁が設置された。しかし、同年12月大阪鎮台分営のための改修工事中に二の丸櫓から出火し、旧城大部分を焼失して、今は本丸の石垣を残すのみとっている。

構造と感想
中央に本丸を構え、周囲に内堀を巡らせ、その外囲 南側に二の丸、東側に三の丸、北側に北の丸、西側に西の丸を配し、外堀として南川、北川、そして海を利用した輪郭式の縄張りであった。現在は本丸が残るのみで、内堀より外側は農地と住宅地に変貌している。
本丸は、南西隅の天守台をはじめ東側を除く三方に石垣が残っているが、北側を除き新たな石材で積み直されているようである。

道 案 内
舞鶴若狭道の小浜インターを降りた小浜IC交差点を右折し県道24号線に入る。西に2km程行った市役所前交差点で右折し、国道162号に入る。北に920m程行った雲浜保育園前で左折し、50m程先の突き当りが小浜神社で一帯が城跡である。神社に参拝者用駐車場を借用。

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              天守付台

 
本丸西面の石塁             本丸南面