一乗谷城  No18201−05 (いちじょうたにじょう)       

三の丸の仕切りの堀切 礎石の残る千畳敷

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 福井市城戸ノ内町
築城年 : 永享年間(1429〜41)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、横堀、堀切、畝状竪堀、虎口、水の手、石積み
訪城日 : 平成23年10月21日

歴   史
越前朝倉氏の詰城が一乗谷城である。
朝倉氏は、但馬の名族日下部氏の一族で、日下部宗高が平安時代末期に但馬国養父郡朝倉荘に住し、朝倉氏を称した事に始まるとされ、建武元年(1334)主家の斯波(足利尾張守)高経が越前守護に任じられ、これに従って朝倉広景が延元2年(1337)に越前に入国、黒丸に居館(黒丸城)を構えたのが、越前朝倉氏の始まりとされる。
南北朝の動乱期、広景は斯波氏の重臣として活躍、越前北部に勢力を広げ、そして、子の高景と孫の氏景も幕府方について功績をあげ、一乗谷が所在する宇佐荘など7か所の地頭職を得、氏景(応永11年(1404)没)の末期には一乗谷から東郷にかけての福井平野東南端部に勢力基盤を置いていたと考えられている。
その後、守護家斯波氏は管領家として室町幕府政治に重きをなし、越前朝倉氏も守護代甲斐氏や織田氏とともに斯波氏三家老として仕えた。
しかし、斯波氏の家督が分裂するとともに、管領畠山氏の家督争いをきっかけとして応仁の乱(1467〜)が起こると、七代目孝景は管領となった斯波義兼に従って西軍主力の一員として京都に出陣、軍功をあげる活躍見せたが、国元の越前では守護を追い落とされた斯波義敏が勢力を回復、また東軍方からの働きかけもあって、応仁2年(1468)孝景は嫡子の氏景を京に残して越前に下国した。
孝景は有力国人や大寺社を味方に誘い、文明3年(1471)「越前守護職について孝景の望みに任せる」との将軍足利義政の御内書を得て東軍方に寝返った。孝景・氏景父子は、毎年のように西軍方の甲斐氏や本領の大野郡に拠った斯波義敏と戦いを繰り返し、さらに守護家の当主斯波義良の侵攻も撃退し、越前一国の平定を成し遂げた。
戦国大名となった越前朝倉氏は、初代孝景から氏景・貞景・孝景・義景と、五代103年に亘って越前を支配し、四代目孝景の時に全盛期を迎え、京都の戦乱を避け多くの公家や文化人が来訪し、「北の京」と称されるほどの繁栄を極めた。
孝景は天文17年(1548)に没し、最盛期の一乗谷を義景が引き継いだ。その義景は永禄9年(1566)越前に流浪して来た足利義秋(義昭)を庇護したが、上洛へとは動かず、義昭は織田信長を頼り美濃へと去さった。永禄11年(1568)信長は義昭を奉じて上洛、義昭を十五代足利将軍に付け、義景に対して上洛し服従するよう命じたが義景は上洛を拒否、これを受け元亀元年(1570)4月信長は越前へ侵攻、国境の城砦群の疋壇城金ヶ崎城天筒山城を落とし木の芽峠へ向かおうとしていたところ、信長の妹婿で北近江の小谷城主であった浅井長政が信長に反旗を翻し背後を急襲、信長は命からがら京から岐阜へと逃れた。同年6月態勢を立て直し北近江に侵攻、姉川で浅井・朝倉連合軍と合戦に及びこれを討ち破った。
しかし、浅井・朝倉連合軍は余力を残しており、同年9月には近江国志賀郡へと湖西路を南下、織田軍との戦いを優位に進めたが、冬の降雪を恐れた義景が和睦を選び越前へ撤退し、信長を討つ絶好の機会を逃した。その後、信長包囲網は徐々にほころび、天正元年(1573)7月織田軍は小谷城攻略に迫り、義景はその救援のために柳ヶ瀬まで陣を進め、小谷城入城を試みたが失敗、浅井氏救援は困難と判断した義景は越前へと退却を始めたが、途中の刀根坂で織田軍に追いつかれ大敗を喫した。義景は一乗谷に帰陣し、朝倉景鏡の勧めで大野郡の六坊賢松院に退いたが、景鏡に裏切られ自害して果て越前朝倉氏はここに滅亡した。一乗谷は、信長の派遣した軍勢により火をかけられ一宇も残さず焼失したとされる。
越前朝倉氏の滅亡後は、信長から守護代を命ぜられた桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に入ったが、天正3年(1575)一向一揆の襲撃を受け吉継は討ち取られた。その後に越前に入部した柴田勝家は北庄城を居城としたため、一乗谷は廃城となった。

構造と感想
越前朝倉氏は、足羽川へ注ぐ一乗谷川の下流端から上流へ約1.7kmに亘って城下町を形成し、その中心に居館を構えていた。そして一乗谷の東側尾根に聳える一乗城山の山頂一帯に詰城として一乗谷城を構えていた。
標高473mの一乗城山から北西に延びる尾根筋に三の丸、二の丸、一の丸を連ね、その先の細尾根は大土塁となり南西側に腰郭が数郭付帯し、その下に小段や土塁で区画された広い郭群が設けられている。この広い郭群(千畳敷、赤淵神社、観音屋敷など)は大土塁と一の丸から西に伸びる支尾根に囲まれた谷地で、土塁囲みや舛形虎口を伴い城の中枢部と見られる。支尾根上には月見櫓跡と宿直跡が設けられ、ここからの眺望は大変よい。宿直跡の虎口には石積みの痕跡が残っている。
一の丸から三の丸、大土塁と連なる山頂からの主尾根筋には要所要所に堀切が入れられ、遮断や郭の区画が図られている。主尾根筋の側面には無数の畝状竪堀が穿たれ、また、主尾根から派生する支尾根の付け根は堀切を入れ、優れた防御構造を誇っている。

道 案 内
北陸自動車道の福井インターを降りて国道158号の南東方向に入る。大野方面に向って3.3km行った天神交差点で右折し県道31号線に入る。200m程行って足羽川の橋を渡り終えて直ぐ左折し県道31号線に入る。県道31号線を1.2km程道なりに進むと左側に朝倉氏遺跡資料館があり、さらに600m程行って右折し県道18号線に入る。760m程進み橋へと左折し、橋を渡って直ぐ左折し80m程先のY字路で右手に入った突き当りが八幡神社で小見放城経由で登れる。

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観音屋敷から宿直跡への虎口     観音屋敷から千畳敷への虎口

 
宿直跡から福井方面への眺望       一の丸北西側の横堀