No25525−03 打下城 (うちおろしじょう)       

中主郭背後の横堀 中主郭虎口脇の石積み

城郭の概要                  
別  名 : 大溝古城
所在地 : 高島町勝野字城山
築城年 : 室町期
形  式 : 山城(標高378.75m)
遺  構 : 土塁、空堀、竪堀、石垣、
訪城日 : 平成24年12月2日

歴   史

 (現地の縄張図) 
打下城は、永正2年(1505)に高島玄蕃允が、清水山城の出城として築城したとも、永禄年間(1558〜69)に林與次左衛門員清が築いたともいわれる。
『高島郡誌』に「天正年間、林與次郎左衛門(員清)の城址にして、天正元年(1573)7月26日より8月4日まで織田信長此に陣せり。浅井三代記に云う高島玄蕃允、海津政義の大溝城は此の城なり。」とあり、『浅井三代記』は、永正15年(1518)浅井亮政が赤尾駿河守に3,500余騎を与えて、8月15日に高島玄蕃の大溝城を攻略させ、さらに伊黒城、深溝城、小松城、真野城を降伏させて、8月26日小谷に帰陣させたと記すが、浅井氏が高島郡を征服したのは、朽木氏が浅井氏と和した永禄11年(1568)とすべきと指摘している。
浅井氏の高島郡支配時には、家臣の海津氏や林氏が城主であったが、その期間は織田信長が高島郡を攻略する天正年間初頭までの5〜6年であった。
元亀3年(1572)3月信長が志賀郡に出陣し、和邇に陣を置き、浅井・朝倉軍を木戸(清水山城)・田中の両城に攻めた際、林與次郎左衛門、伊黒法泉坊、永田刑部等が信長に降り、以後、信長の陸からの高島攻撃の拠点になって行った。
天正元年(1573)に浅井の降将・磯野員昌が信長から新知を与えられ、天正2年(1574)新庄城主となり、織田信澄を養子とし、天正6年(1578)大溝城に移るまで打下城に在城したと地元に伝承されている。           

構造と感想

(中主郭虎口内)


(中主郭下段の炉跡)


(北主郭西方向)
打下城は大溝古城とも呼ばれ、標高378.75mの山頂一帯に築かれ、東西270m×南北300mの城域を有する典型的な山城である。
ここからは高島郡南部の平野のみならず、湖北や湖東方面までも展望でき、湖上交通の監視もたやすく、また、直下には洞海の入江が湾入して形成する狭隘な地形を北国街道(西近江路)が通っており、その街道を容易に押さえられる交通上の要衝に位置している。
城の遺構は、大別して南北の2ブロックに大きく区分され、南ブロックの中心は、標高378.75mの頂部に設けられた30m×25mの2段築成の中主郭である。虎口が北東部にあり、北より上って来ると東へ張出す土塁に突き当たり、土塁の裾を コの字 に迂回すると再び石積みの櫓台に突き当たり、そこで左に折れて、次に右に折れて、漸く郭内に入れる堅固な造りの虎口を持つ。郭の四囲は土塁が廻り、尾根続きの南西背後は大きな横堀によって遮断され、横堀の北端部は複数の竪堀となって斜面に落ちている。なお、中主郭の下段中央に板石を方形に組んだ遺構が残っているが、炉跡と推測されている。
北ブロックの遺構は、中主郭から北に延びる尾根上に9ヵ所ほどの小段を連続し、この先端の土橋を渡り平入虎口を入ると、土塁に囲繞された東西54m×南北32mの規模を有する北主郭で、その北東と南東の斜面の畝状竪堀および東斜面の2ヵ所の小郭から構成されている。
中心となる北主郭の平面形は菱形状で、削平は北から南に緩斜面となっており、東西は掘り下げられている。また、北東の土塁の内側と東端の外側には石積みの残欠が見られ、往時は土塁外面を石積みにより防御していたと思われている。
この遺構には、畝状竪堀が見られ、清水山城とともに、貴重な遺構とされている。
この城跡を訪れたた際は、登り口が笹に覆われ案内板が隠れており、1時間以上登城路を探し彷徨し疲れ果てましたが、山中を東から北に横移動しているうちに案内板を見つけやっとのことで訪城が叶いました。普通に登っても厳しい城跡で、迷ったことで大変厳しい訪城でしたが、遺構はよく残っており、縄張りも特異で訪城の価値があった。
なお、これから訪城される方のために、道案内に登り口を詳しく書いたので、参考にし、笹を掻き分け川沿いに入ってください。

道 案 内
国道161号を北進し白髭神社を過ぎ1.4km程走ると国道161号と高島町市街地に入る道(旧国道)に分岐する。分岐を左斜めの市街地方面に入り、道なりに1.4km程走行すると近江高島駅口交差点に出る。交差点を左折してJR湖西線ガードを通り抜け、180m程先の十字路を直進し細い道に入ると左に城山台自治会館がある。50m程先の次の十字路を右折し、北西に130m程進みT字路を左折する。南進しこの道を最奥まで行くと日吉神社で、その先、南20m奥の谷川を渡って直ぐに川沿いを上流に向け登りって行くと要所に小さな案内板があり、絵の描いた砂防ダムに出る。その脇をさらに案内板に従い尾根まで登り、尾根にある案内板に従い、左手の城域へと進むと10分程で中主郭に至る。

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