No25503-17 大岩山砦 (おおいわやまとりで)       

中川清秀の墓所 主郭西側の土塁

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 伊香郡余呉町下余呉
築城年 : 天正11年(1583)
形  式 : 山城(標高270m) 
遺  構 : 土塁、竪堀、竪土塁
訪城日 : 平成22年5月4日

歴   史
天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦に際して、3月19日未明から羽柴秀吉が味方の要害普請を巡見し、その日の内に大岩山と岩崎山の二ヶ所に要害を構えるよう指示を出した。大岩山には摂津茨木城主の中川瀬兵衛尉清秀が、岩崎山には摂津高槻城主の高山重友(右近)が、砦を築き布陣することになった。
秀吉軍本隊が岐阜へ出陣中の4月20日、行市山砦の佐久間盛政は夜半の暗闇に紛れて行市山砦を出発、別所山に出、集福寺峠を駆け下り、祝山から権現坂を越えて余呉湖畔に出た。湖畔の西岸から東岸を巡り尾野呂浜から中川清秀が守備する大岩山砦を奇襲、陣砦の構築開始から日が浅く防備が整っていなかった大岩山砦は、敢えなく陥落した。中川清秀軍は、隣接する賤ヶ岳砦の桑山重晴や岩崎山砦の高山右近に救援を要請するも援軍は来ず、清秀軍は奮戦も虚しく全滅した。
天和2年(1682)の清秀100回忌にあたり5代後の子孫・豊後岡藩第4代城主・中川久恒が砦跡に供養塔を建てた。その80年後中川家子孫の墓参記念に追悼石碑が建てられた。

構造と感想
湾曲した尾根筋上にあり砦も湾曲した形状を呈している。中央よりやや北寄りに土塁で囲まれた主郭が設けられ、その内部は高低差により二区分されている。南側と北東角に虎口を開き、東側と西側の一ヶ所に横矢掛かりを設けている。主郭の東側犬走り下方に竪土塁と竪堀が入れられている。主郭の北側に主郭と同程度の広さを持つ削平地が見られる。
しかし、墓所の建立やハイキング道の整備等によって遺構が崩れているようである。主郭を囲む土塁も部分的に僅かな高みが残るのみである。
一方、墓所の建立にともなって地元民が組織した中川組によって定期的な管理が連綿と続けられているためか主郭は美しく保たれている。失われた幾多の命が祀られる地に相応しい厳かな雰囲気である。

道 案 内
国道8号の木之本IC口交差点から北に国道365号を3.8km程行った余呉湖口交差点で左折し、北陸本線の踏切を渡り300m程行った左手に「賤ヶ岳登り口」の看板があり、そこから山道を登るが、車は看板から150m程行った先の観光用駐車場に駐車できる。
先ほど通り過ぎた「登り口」の看板から山道を登ること25分程で「中川清秀の墓」や「大岩山」の案内標識があるので、そちらの方へ(左へ)入ると砦跡である。

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