No25483-4 山崎丸 (やまざきまる)       

仕切土塁 北の横堀

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 東浅井郡湖北町伊部
築城年 : 元亀3年(1572)
形  式 : 山城(標高236m)
遺  構 : 土塁、横堀、虎口、横矢掛かり、竪堀
訪城日 : 平成22年5月16日

歴   史

山崎丸の名前の由来は、築城した朝倉氏武将の山崎吉家からとられたと伝えられている。
大嶽城から南に馬蹄形に伸びる西側の尾根筋(知善院筋)が最も大嶽城や小谷城攻めに適しており、元亀3年(1572)織田信長の小谷城攻めの際に、浅井氏の救援に来た越前の朝倉義景は、7月晦日に小谷城に着陣し、8月2日にはこの尾根筋に布陣して、山崎丸、福寿丸および月所丸を築いたとされる。


構造と感想
西側の尾根筋(知善院筋)の防備を固めるために、大嶽城から下方へ500m間隔に福寿丸、山崎丸が築かれた。

福寿丸と山崎丸は二城一郭的構造であり、山崎丸の下端と福寿丸の上端には、それぞれ堀切と竪堀で尾根や斜面からの攻撃に対する防御体制を取っている。

滋賀県中世城郭分布調査の概説に、両城の中間の尾根には、幅約25m×長さ約30mの削平地が有り、その中央を約30mの土橋が渡っているとあるが、同調査図面の小谷城略測図にはその削平地や土橋が表されていない。
しかし、元亀3年(1572)8月浅井氏の要請を受けて加勢にやってきた朝倉義景が山崎丸に陣を移した時に、山崎丸の上尾根筋にある削平地を待機地とし、上尾根からの防御の意味で福寿丸を改築したとされ、郭間にも駐屯地関連の遺構が残されている可能性が高い。
山崎丸は、南北が長い方形で、南下方を堀切で区画、東斜面には竪堀を伸ばしている。虎口は、北東と南西の二箇所にあり、北東虎口は主郭へ、南西虎口は外枡形から副郭へ入る形態である。
一説には福寿丸・山崎丸共に、枡形や馬出しを幾重にも組み合わせた複雑な縄張り構造であり、浅井・浅倉の縄張りとは明らかに異なる点から、賤ヶ岳合戦時の羽柴秀吉軍の陣城として改築された可能性も否定できないとの見方もある。
幅広い尾根筋にこじんまりとした土塁と空堀に囲まれた山崎丸と福寿丸が突然に現れる感じを受ける。賤ヶ岳合戦の柴田軍の陣城でも土塁囲いの郭周辺に平坦地が続く砦跡が見られる。これが一つの陣城の形態なのだろうか、それとも周辺の防御施設を築く時間的な余裕がなかったのか、いずれであろうか。


道 案 内
県道37号線の長浜IC口交差点を西に330m程行った山階町東交差点を右折し、北に県道510号を道なりに6.5km程行くと国道365号の郡上南交差点に出る。その交差点を直進し170m程行った付近で駐車する。そこから徒歩で西に100m程行った尾根の先端にある清水神社を通り抜け、水道施設のフェンス沿いに尾根道に入る。山道を500m程登ると山崎丸で、さらに500m程で福寿丸に至る。

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