西側の尾根筋(知善院筋)の防備を固めるために、大嶽城から下方へ500m間隔に福寿丸、山崎丸が築かれた。
福寿丸と山崎丸は二城一郭的構造であり、山崎丸の下端と福寿丸の上端には、それぞれ堀切と竪堀があり、尾根や斜面からの攻撃に対する防御体制を取っている。
滋賀県中世城郭分布調査の概説に、両城の中間の尾根には、幅約25m×長さ約30mの削平地が有り、その中央を約30mの土橋が渡っているとあるが、同調査図面の小谷城略測図にはその削平地や土橋が表されていない。
しかし、元亀3年(1572)8月浅井氏の要請を受けて加勢にやってきた朝倉義景が山崎丸に陣を移した時に、山崎丸の上尾根筋にある削平地を待機地とし、上尾根からの防御の意味で福寿丸を改築したとされ、郭間にも駐屯地関連の遺構が残されている可能性が高い。
福寿丸は、南北が長い方形で土塁に囲繞され、北上方を堀切で区画、東斜面には竪堀を伸ばしている。虎口は、北東と南東の二箇所にあり、いずれも土塁間の通路を通り郭内に通じる形態である。南東の虎口は、直進を妨げる落とし穴状の空堀を設けている。西と南に帯郭状の平地を伴っている。
一説には福寿丸・山崎丸共に、枡形や馬出しを幾重にも組み合わせた複雑な縄張り構造であり、浅井・浅倉の縄張りとは明らかに異なる点から、賤ヶ岳の合戦時の羽柴秀吉軍の陣城として改築された可能性も否定できないとの見方もある。
幅広い尾根筋にこぢんまりとした土塁と空堀に囲まれた山崎丸と福寿丸が突然に現れる感じを受ける。賤ヶ岳合戦の柴田軍の陣城でも土塁囲いの郭周辺に平坦地が続く砦跡が見られる。これが一つの陣城の形態なのだろうか、それとも周辺の防御施設を築く時間的な余裕がなかったのか、いずれであろうか。
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