No25383-04 中野城 (なかのじょう)       

北東部の土塁と櫓台跡 北側の内空堀跡

城郭の概要                  
 城址碑
別  名 : 日野城、 
所在地 : 蒲生郡日野町西大路
築城年 : 文亀・大永年間(1501〜23)
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、空堀、櫓台、
訪城日 : 平成22年12月26日      

歴   史
淡海温故録に「中野の城は蒲生家数代居城なりと云う、音羽の城も蒲生家持ちの城なり」とあり、中野城は、音羽城と並ぶ蒲生氏の城の一つであった。
当初、中野城は文亀・大永年間(1501〜23)に音羽城 (応仁・文明年間(1467〜87)に蒲生貞秀が築城) の支城として築かれたとされるが、貞秀死後の大永2年(1522)に秀紀(貞秀嫡男の子)と高郷(貞秀二男)の家督を巡る内紛から秀紀が音羽城に籠り、これを高郷が攻め、高郷に対して六角定頼が2万の援軍を派遣し、8ヵ月間に及ぶ籠城戦の末、ついに秀紀は降参、開城した。
この戦いは六角定頼の仲介で和議が成ったが、定頼が支援する高郷側に有利な条件が与えられ、蒲生氏の家督は秀紀から高郷の嫡男である定秀に移譲され、対する秀紀は音羽城を退去させられ鎌掛城に移り、音羽城は破却、廃城となった。大永5年(1525)12月には秀紀が高郷・定秀父子の送り込んだ刺客によって毒を盛られ暗殺され、宗家は断絶している。
以後、蒲生氏の本城は高郷が本拠としていた中野城に移り、蒲生定秀が天文2年(1533)から3年がかりで本格的に改築するとともに町割りをして城下町も整備した。
永禄6年(1563)10月六角義治が重臣後藤但馬守父子を観音寺城内で誅殺した いわゆる観音寺騒動で、家臣達が観音寺城内の屋敷を焼き払った際に六角義賢、義治父子は日野蒲生館(中野城)に逃れた。この時、定秀は嫡男・賢秀とともに六角家臣団との和睦を調え、主君義賢、義治父子を観音寺城に復帰せしめている。
永禄11年(1568)9月織田信長が上洛途上に観音寺城の六角氏を下した際、六角方の賢秀は日野城(中野城)に立て籠もり、信長勢に抗する姿勢を示したが、姻戚関係にある神戸具盛の諫言を入れ、信長に帰順し臣下となった。
天正10年(1582_)5月賢秀は安土城の留守居を命じられるが、本能寺の変が起こり、賢秀・氏郷父子は信長の妻子、女房衆とともに中野城に引き上げた。天正12年(1584)氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に転封になり、その後の詳細は不明ながら慶長9年(1604)に城内の建物と武家屋敷が取り壊されている。
元和6年(1620)蒲生・野洲両郡を中心に領地を領した市橋長政が仁正寺に入り、中野城の北東隣に陣屋を構え、明治維新まで続いた。

構造と感想
 現地の縄張図
城跡は、伊勢越道と日野川に挟まれた河岸段丘に立地している。かつて日野川が城の東、南、西を取り巻くように流れ、三方を河岸段丘によって守られた天然の要害で、背後は規模の大きい二重空堀で防御を固めていた。
主郭は、空堀と土塁が囲む約7、80m四方の方形で、土塁の規模は北が大きく高さ4、5mもあり、南は小さく低くなっていた。北側の堀巾は約20mと規模が大きい。さらに約30m北方に同様な空堀が一部残っている。この他に西側段丘肩沿いに土塁が、その内の茶畑に空堀跡の段差が残っている。
現在に残っている主郭北側の大規模な土塁や空堀の遺構を見ていると往時の中野城の壮大さを十分に想像できる見事な遺構である。
なお、江戸時代には、主郭の北隣に西大路藩市橋家1万7千石の西大路陣屋(仁正寺陣屋)が置かれ、その際に外堀の東半分が消失したようである。その他は戦後の開墾により破壊され、ダムによる破壊は殆どないのもと思われる。
                         

道 案 内
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との(御園)交差点を右折し、国道307号に入る。南に9.1km程行った松尾交差点(右手の公園に蒲生氏郷公の像がある。)を左折する。日野の商店街を通り東に2.5km程行き、T字路を右折し道なりに250m程南に入ると左手および前方にダム湖が見える。左手の駐車場に駐車し、その北側に城跡がある。       

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