No25383−05 音羽城 (おとわじょう)       

北西出郭の堀切 南出郭の櫓台 (虎口?)

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 蒲生郡日野町音羽
築城年 : 応仁・文明年間(1467〜86)
形  式 : 平山城(標高284.1m)
遺  構 : 土塁、堀切、空堀、土橋、井戸
訪城日 : 平成22年12月26日

歴   史
音羽城は、蒲生貞秀によって応仁・文明年間(1467〜86)に築城されたと考えられている。史料中には「日野之蒲生館」、「蒲生の城」などと表記され、幾たびか戦乱に巻き込まれたとの記録が残る。
第一次伊庭の乱の際、六角高頼が蒲生貞秀を頼り音羽城に籠ったことから、文亀3年(1503)に伊庭氏に味方した管領細川政元の家臣赤沢朝經(宗益)に攻められたが、籠城を続けこれを撤退させている。
貞秀死後の大永2年(1522)に秀紀(貞秀嫡男の子)と高郷(貞秀二男)の家督を巡る内紛から秀紀が音羽城に籠り、これを高郷が攻め、高郷に対して六角定頼が2万の援軍を派遣し、8ヵ月間に及ぶ籠城戦の末、ついに秀紀は降参、開城した。
この戦いは六角定頼の仲介で和議が成ったが、定頼が支援する高郷側に有利な条件が与えられ、蒲生氏の家督は秀紀から高郷の嫡男である定秀に移譲され、対する秀紀は音羽城を退去させられ鎌掛城に移り、音羽城は破却、廃城となった。大永5年(1525)12月には秀紀が高郷・定秀父子の送り込んだ刺客によって毒を盛られ暗殺され、宗家は断絶している。
音羽城の廃城については、「寺院雑要抄」に「惣国ニ城郭可停止之間、則自十日破之云々」とあり、破城の史料の初見とされている。
しかし、寛政・文化年間に描かれた「音羽古城絵図」や大正6年1月測量の「音羽城測量図」から廃城後に修築あるいは再築され使用された可能性が指摘されているが、その時期や理由は不明とされる。

構造と感想
現地の絵図
音羽城は、大字音羽集落から日野川を挟んだ南約400m、猪の鼻ガ岳より北へ半島状に伸びた尾根の先端に築かれており、北と東の斜面は急崖で天然の要害地形となっている。
現在、音羽山公園となっている平坦地が主郭部で、東西に帯郭が付帯している。西側帯郭の下方には士屋敷があり、その北に平野部を一望できる出郭を設けている。この出郭には、堀切、土塁、空堀、虎口が残っている。主郭の南にも出郭が設けられ、主郭とは大きな堀切で区画し、土橋を架けている。東端には櫓台状の土壇が残っている。
なお、主郭部の遺構は、公園工事や日渓溜(東側の池)の築堤工事の土取りによって失われ、絵図にある本丸、二の丸、南丸跡等の確認は困難となっている。また、横堀状の溝は「トロッコ道」で城の遺構ではないとのことである。
            

道 案 内
城址碑
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との(御園)交差点を右折し、国道307号に入る。南に9km程行った松尾北交差点を左折する。国道477号に入り東に5.1km程行った十字路(上音羽バス停付近)で右折し、南に道なりに390m程行きT字路で左折する。県道182号線に入り550m程道なりに進み県道が右に大きくカーブする所を直進し、30m先で左折して山道を230m程上った公園が城跡である。   
               

TOPへ 戻る