No25383−10 鎌掛城 (かいがけじょう)       

主郭の櫓台 東郭の虎口外より

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 蒲生郡日野町鎌掛
築城年 : 文亀2年(1501)
形  式 : 山城(標高373.4m)
遺  構 : 土塁、堀切、虎口、井戸、堅堀、
訪城日 : 平成23年2月12日

歴   史
石積み井戸
南北朝時代の建武2年(1335)に中野左衛門尉清信が砦を築いたと伝えられるが、城郭としては、文亀元年(1501)に蒲生秀行が砦を修築し、家臣の武村伯耆守重綱を入れた時期と考えられている。
蒲生貞秀死後の大永2年(1522)には、秀紀(貞秀嫡男の子)と高郷(貞秀二男)の家督を巡る内紛から秀紀が音羽城に籠り、これを高郷が攻め、高郷に対して六角定頼が2万の援軍を派遣し、8ヵ月間に及ぶ籠城戦の末、ついに秀紀は降参、開城。蒲生氏の家督は秀紀から高郷の嫡男である定秀に移譲され、秀紀は音羽城を退去させられ鎌掛城に移り、音羽城は破却、廃城となった。大永5年(1525)12月には、秀紀が高郷・定秀父子の送り込んだ刺客によって毒を盛られ暗殺され、宗家は断絶となった。
その後、中野城主であった蒲生賢秀が嫡男の蒲生賦秀(のちに氏郷)に家督を譲った際、山屋敷に隠居し、天正12年(1584)死去し、天正13年(1585)蒲生氏郷が伊勢松ケ島に国替えになった直後に豊臣秀次の命で廃城になったと考えられている。

構造と感想
鎌掛集落の東に位置する城山の山頂に鎌掛城跡が、そして北西山麓に山屋敷遺跡が所在しており、詰城と居館の関係にあると思われる。
鎌掛城は、山頂を起点に北東、北、北西の三方に伸びる尾根上に郭等を配置しており、城域は約360m×約180mの範囲に及んでいる。山頂の郭は小さいが、北東や北に伸びる尾根には大きいな規模の郭が重なっている。主郭は西から北を削り残して櫓台や土塁とし、郭内は二段に削平され、虎口部を窪地としている。東へ下る細尾根にはクランクを伴う堀底道が続き、東端で削り出しの高い土塁に西を除く三方を囲繞された東郭が設けられている。この東郭の北西隅には北へ下る虎口が開き、虎口の土塁は城内側に折れ、通路は虎口を出て左に折れて下っている。内に折れた土塁からは、侵入者に対し正面と側面から攻撃が出来る構造になっている。東郭から北へ下った谷頭には、径約3.5m、深さ約5mの見事な石組み井戸が残っている。
西に伸びる尾根は痩せ尾根で堀切が設けられるのみである。北に伸びる尾根には5段の郭が設けられ、下から二段目の郭には、西側に虎口と推測される開口部が残っており、大手道へと続くと考えられている。
北西に伸びる尾根は、井戸のある谷頭から2〜30m程谷沿いを下った先に4、5段の細長い郭が設けられている。
山頂部の主郭や東郭に井戸には、見応えのある遺構が随所に残っており、防御のための技巧も凝らされ、大いに満足できる遺構である。

道 案 内
東郭の土塁
神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との(御園)交差点を右折し、国道307号に入る。南に9.5km程行った日田交差点を直進し、日野水口グリーンバイパスに入る。南に700m程行き日野川を渡り、最初の信号交差点で左折し、東に道なりに3.3km程行くと県道182号線に至る。左折し県道182号線に入り、東に1.1km程行って正法寺を越えた屏風岩の案内板のあるところで右折する。後は車で行ける所まで山に向かい、余白に駐車する。山道を登り始めると直ぐに道が二手に分かれ、右手を進みピークのやや手前のところで左斜面を直登する感じで登る。尾根まで出たら右手に山頂まで登ると城跡である。  

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