No25366−08 No25366−09
杉谷城 竹中城
(すぎたにじょう) (たけなかじょう)

杉谷城の堀切 竹中城の西側空堀

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 別  名 :
所在地 : 甲南町杉谷字重森 所在地 : 甲南町新治字熊尾
築城年 : 築城年 :
形  式 : 丘城 形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、空堀 遺  構 : 土塁・空堀・落とし穴
訪城日 : 平成23年3月26日 訪城日 : 平成23年3月26日

歴   史
・・・・杉谷城・・・・の城歴などは定かでないが、杉谷氏の城と考えられている。
元亀元年(1570)織田信長の朝倉攻めに対し、妹婿の浅井長政が離反。信長は挟撃の危機に陥り、「金ヶ崎崩れ」と呼ばれる撤退戦を経て、命かながら京に戻ったが、岐阜への帰還にあたって、六角氏と甲賀武士の守る鈴鹿峠を通れず、蒲生郡の千種峠を越えざるを得なかった。その時、六角承禎の命を受けた杉谷善住坊が千種峠の山中で織田信長を狙撃したとされるが、その出身がこの杉谷氏と云われている。
・・・・竹中城 ・・・・の城歴などは、詳細不明である。

構造と感想
・・・・杉谷城・・・・は、望月城北側の杉谷川を挟み東に向かって延びる丘陵の先端部に立地している。南側と南東側が土砂採取により失われている主郭とその北側に比較的広い郭が遺存している。
主郭は、高さ5、6mの土塁が北東と北西側にL字状に残り、北西側土塁の外には上巾約12m、底巾約2、3m、深さ約6m程の堀切が設けられ、丘陵続きを遮断している。堀切の北東端に土橋が架かり主郭土塁の屈曲部にタッチしている。
主郭北東側土塁の南東端部を西に回り込むと北側の郭に通じている。北郭は、東西約40m、南北約40mの規模で、郭内は西側が一段高く、二段になっている。しかし、丘陵続きの背後に防御施設が設けられておらず、城域かは定かでない。
・・・・竹中城・・・・は、甲南町新治のうち、倉治集落の北西、杣川の河岸段丘上に立地し、西側には杉谷川が北流している。四方は土塁で囲繞され、土塁の外周には空堀が廻る典型的な単郭方形の館城である。
この竹中城は、杉谷の出口部に位置し、谷を取り囲む東側の丘陵上には村雨城寺前城新宮城新宮支城が築かれており、これらの城とともに竹中城も「甲賀郡中惣遺跡群」として国史跡に指定されている。なお、杉谷の西側丘陵上には、杉谷城、望月城望月支城杉谷砦が至近の距離で築かれている。
竹中城の遺構は、北東隅部の土塁、東側と南側の東半分の空堀が失われているものの、その他は完存に近い状態である。
虎口は南側の中央部に開口し、西側の土塁が東側の土塁より南に張り出しており、東から来て虎口前で北に折れ城内に入ったと考えられている。また、虎口のある南側の土塁は、他の三方より分厚く高くされ、虎口への防備を固めたことが窺える。東側土塁の内側斜面には、北から南に向かって登るスロープ状の道が設けられている。虎口西側の土塁にテラス状の平坦地があり、これもスロープ状の道の痕跡と見られている。
郭内は西側が一段高く、二段になっている。段差の南端部に井戸状の窪地があり、虎口に近接するため落とし穴と考えられている。
虎口西側の土塁上面に巾2m程の溝が南北方向に五条、その内側裾には箱堀状の窪地が掘られているが、これらを郭内と土塁との連絡と土塁上の移動を妨げるよう「城割り」が行われたとする見方もあるようだ。
明治期の地籍図では、この城の北東側に近接して二か所の方形区画が認められているが、現在では痕跡すら残っていない。

道 案 内
新名神高速道を甲南インターで下りた最初の交差点である甲南IC口交差点で左折し、広域農道に入り560m程北進すると新治口交差点に至る。新治口交差点で左折して、北西方向に910m程進み、大きな十字路交差点に達する。
・・・・杉谷城・・・・へは、大きな十字路交差点の先180m程の左手に道路の斜面を北から南に向いて登る細い道がある。その道を60m程登って行くと杉谷城跡である。付近の空地に駐車。
・・・・竹中城・・・・へは、大きな十字路交差点で右折して、県道132号線に入り600m程道なりに進むと県道49号線との交差点に至る。右折して県道49号線に入り、360m程東進した所のT字路で左折する。田んぼの中を320m程北上すると集落入口のY字路に達する。その先40m弱で左手の路地へ左折し、70m程西進した右手の雑木林が竹中城跡である。

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杉谷城主郭の土塁 竹中城の南側の虎口