No25363−07 No25363−08
望月支城 望月城
(もちずきしじょう) (もちづきじょう)

望月支城北側の土塁 望月城主郭内の西方向

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 別  名 :
所在地 : 甲南町杉谷字広谷 所在地 : 甲南町杉谷字広谷・黒政
築城年 : 築城年 :
形  式 : 丘城 形  式 : 丘城
遺  構 : 土塁、堀、虎口、堀切 遺  構 : 土塁、堀、虎口、堀切
訪城日 : 平成23年3月26日 訪城日 : 平成23年3月26日

歴   史
望月城、望月支城は、甲賀地域で組織されていた同名中惣の性格から室町時代に望月氏一族によって築かれたと考えられているが、同城に関する資・史料が発見されておらず、詳細は不明である。
望月氏は、甲賀地域で勢力を持っていた土豪で、室町期には観音寺城主六角氏に従っており、長享元年(1487)に勃発した「鈎の陣」では六角高頼方に属して、将軍足利義尚の率いる幕府軍と戦った「甲賀五十三家」の筆頭格とされる。
永禄11年(1568)足利義昭を擁して上洛のため近江に進攻してきた織田信長に対し、近江守護の六角承禎(義賢)・義治父子は観音寺城箕作城を捨て甲賀に脱出。この時、望月氏の支援を受けて、甲賀の杉谷から伊賀の音羽へと逃れ山内氏を頼ったとされる。義治から望月吉棟に宛てた「(巻き返しをはかる日には)相変らぬ助力を頼む」旨の書状が残っている。

構造と感想
望月支城は、望月城とは谷を挟んで南側の尾根先端部に築かれており、両城は僅か50m程の至近距離に並んで築かれた甲賀の典型的な方形城館で、二城の連結タイプの城である。

・・・・望月支城・・・・は、主郭の周囲を土塁で囲繞し、西側の丘陵尾根続きを堀切で断ち切っている。東側やや南寄りに開口部があり、虎口と考えられている。その虎口を出た一段下に虎口受けの小削平地が設けられているが、その先は斜面の崩落で城道のルートは明らかでない。城の規模は、望月城と同程度であるが、望月城よりも土塁が低く薄い分、郭内が広く、圧迫感が少ない。
なお、北側の土塁下に帯郭状の小段と南側にも広い平坦部を伴っている。

・・・・望月城・・・・の主郭内の広さは30m四方程と小規模であるが、四囲の土塁は分厚くそびえるように高く圧倒される。土塁の高さは、郭面から4〜9mにも及び、上幅は5m前後で隅部はさらに広く、櫓台状を呈している。土塁の外周には横堀が巡らされ、東面中央付近に開く虎口前には左斜めの土橋が架かり、クランク状に折れ曲った城道になっている。虎口脇の土塁は、北側に対し南側が外側に大きく張り出し、土橋に正対するようになっている。また、虎口脇の土塁には礫が見られ、虎口脇は石積みになっていたと推測されている。
土橋を渡った北東前方に広い副郭が広がり、東面中央付近に虎口が開き、下方の郭に連絡している。しかし、下方の郭の周囲は土取りにより崖地となっており、城道が失われている。現在は、下方の郭の南東斜面を登る道が設けられ、副郭に入れるが、後世の破壊道とされる。
主郭の北側には、外側を低い土塁で囲み、内側を横堀で区画した半月状の帯郭が築かれ、伊賀や信楽に通じる道を眼下に見据えている。
主郭西側の尾根続きは、内側に横堀に近い堀切、外側に深く削り込んだ典型的な堀切を設けた二重堀切とし、背後を厳重に遮断している。堀切も見応え充分である。

本当に見事な遺構が残っているが、私有地で無断立入は禁止されているようで、説明板や城址碑の類は設置されていない。

道 案 内
新名神高速道を甲南インターで下りた最初の交差点である甲南IC口交差点で左折し、広域農道に入り560m程北進すると新治口交差点に至る。
・・・・望月城・・・・へは、新治口交差点で左折して、北西方向に790m程進み、川の手前の十字路で細い道に左折する。その先260m程でY字路となり、左手上方が望月城跡である。付近の空地に駐車可。
登城路は、望月城の東側に設けられているようであるが、Y字路付近に堀切からの竪堀があるので、そこから城跡へと入った。
・・・・望月支城・・・・へは、望月城の南側にある小さな谷を通り抜けて、対面の尾根に取り付けば望月支城である。望月支城も西側の堀切から入ることができる。

望月支城   望月城 TOPへ 戻る
望月支城西側の堀切 望月城の虎口と土橋
望月支城の東虎口と竪土塁 望月城虎口脇の石積み
望月城の二重堀切