No25207−05 立入城 (たていりじょう)       

新川神社に残る堀跡 集落東部に残る土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 守山市立入町
築城年 : 文明年間(1469-87)
形  式 : 平城(居館)
遺  構 : 土塁・堀跡
訪城日 : 平成24年4月21日

歴   史
立入城は、文明年間(1469〜87)に松田丹後守秀興によって築かれたとされる。
立入氏は、飛騨高山城主であった松田丹後守秀興が応仁の乱で所領を失い、高山から近江に移って来て、近江守護佐々木高頼に仕え立入城主として野洲郡8万石を領し、立入氏を称したことに始まるとされる。秀興の子・立入宗康から皇室の食料や費用を預かる御倉職に任ぜられ、その職は宗康-宗長-宗継(1527〜1622)と受け継がれた。
宗継は、応仁の乱以降の掠奪や横領により荒んだ御料所の回復や京都御所の修営を依頼するため、永禄7年(1564)大納言万里小路惟房卿に織田信長に密勅を送るよう説いて、自ら忍びで正親町天皇の勅使として清州へ赴いた。続いて永禄10年(1567)11月信長と親交のある岳父磯谷久次新右衛門尉と共に輪旨を携えて岐阜城の織田信長の許に下向し、上洛を促した。信長は翌永禄11年(1568)7月足利義昭を岐阜に迎え、同年9月上洛の軍を興して近江に攻め入り観音寺城の支城である箕作城を陥落させ、六角承禎・義治父子を甲賀へと追い払い、義昭を奉じて入京を果たした。その際、惟房と宗継は天皇の命を受け粟田口に信長を出迎えている。また、宗継は天正6年(1578)、10年間に及んだ石山合戦において、信長と本願寺門主顕如との和睦にも奔走している。
なお、元亀騒乱(元亀元年(1570))での野洲川の戦いにおいて、立入城は織田軍の拠点となった。
その後、天正10年(1582)岐阜城主織田信秀に属し、天正末期には近江八幡城主豊臣秀次に属した後、芦浦観音寺が立入城を治め、江戸期の延宝(1675)の頃、立入は二分され旗本領となった。
宗継は、元和8年(1622)95歳で亡くなり、京都清浄華院に葬られ墓が残っている。
ところで佐々木六角氏に仕えた支流の立入因幡守清直の居城とする説もある。

構造と感想
奥屋敷の西方隅の土壇
立入城は、野洲川西岸の立入集落に所在し、新川神社の南東側に口屋敷、奥屋敷との字名が残っており、この付近に立入城があったと考えられている。
新川神社境内に明瞭な土塁と堀が残るが、集落内の他の遺構は住宅開発が著しく、残片がほんの一部に残るのみで、城郭全体の縄張りを想定することは難しいが、奥屋敷の四周は水路が取り巻いており、方形城館の存在を想定することが出来、その西方の隅に櫓台と思われる土壇が残っている。なお、隣町の岡町に立入氏の菩提寺の西隆寺がある。
           

道 案 内
神高速栗東インターを下りて取付高架道路を国道8号方面に向かい1.4km程走ると国道8号に合流する。国道8号を北東方向に1.5km程で辻交差点に至り、直進して400m先野洲川大橋の手前で左折し堤防道路に入る。堤防道路を1.8km程下り、シライ電子工業を過ぎた所のT字路で左折する。坂道を下りた十字路を左折し80m程行くと右手に新川神社がある。神社から200m程道なりに進むと立入会議所で付近に土塁が残る。

TOPへ 戻る