医王寺砦  No23581−02 (いおうじとりで)       

主郭 堀切の竪堀

城郭の概要                  
別  名 : 医王寺山武田勝頼陣所
所在地 : 新城市(鳳来町)長篠字弥陀前
築城年 : 天正3(1575)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、土橋、堀切、竪堀、井戸、
訪城日 : 平成26年8月24日

歴   史
医王寺砦は、天正3年(1575)の長篠の戦いにおいて、武田勝頼が本陣を置いた陣城である。
元亀4年(1573)三河に進攻した武田信玄は、野田城を攻略後、急に西上作戦を中止し帰国すると、信玄死すの噂が流れ、家康は噂の真偽を確かめるため、長篠城を攻めた。武田方も救援に出向いてきたが、徳川方はそれを撃退したので、長篠城主・菅沼正貞は城を明け渡し、退去した。これにより家康は信玄の死を確信したとされる。
長篠城を奪還した家康は、次に作手亀山城の奥平貞能の調略を成功させ、息子の貞昌に応援の兵を付け長篠城主とした。
貞能の寝返りを知った武田勝頼は、天正3年(1575)4月甲斐、信濃、上野の兵およそ1万5千を率い三河に向け出陣した。三河に入った勝頼は、兵を二手に分け、高坂・小山田隊2千を長篠城に向かわせ、自らは1万3千をもって吉田城攻略に取りかかった。しかし、家康もこの城に陣取っており、攻略には時間がかかると判断した勝頼は、長篠城へ向けて軍を返した。勝頼は、長篠に到着すると城の直ぐ北側の医王寺山に陣城を築いて本陣を置き、久間山砦、中山砦、鳶ヶ巣山砦、姥ヶ懐砦、君ヶ伏床砦の五砦を築いて長篠城を完全に包囲し、兵糧攻めの構えに入った。
その後、織田・徳川連合軍3万8千が救援に駆け付け、設楽原の連子川を前面にして馬防柵を築いて陣を敷いた。これに対し、5月19日勝頼は医王寺の本陣で軍議を開き、遂に武田家の命軍を左右した設楽原の戦いへと駒を進めたのである。

構造と感想
医王寺から医王寺山山頂の砦跡まで10分程である。
中央に来たと南側に腰曲輪を伴った本曲輪があり、その東側には土橋で繋がった東曲輪、西側には土橋の架かる堀切を隔て西曲輪がある。遺構はあまり明瞭ではないが、長篠城を一望できる位置にあり、また、麓には大軍が駐屯でき、長篠城攻めの本陣が置かれたことに頷ける。

道 案 内
新東名高速の新城インターを下りて国道151号を北方向に入る。国道151号を2.7km程道なりに進むと道路沿い右手に大きく「長篠城址」や鳥居強右衛門の看板が出ている。そこから110m程先の長篠城址交差点で左折し鳳来寺道に入る。鳳来寺道を北西方向に380m程行った十字路(医王寺入口の小さな案内板あり。)で右折し、240m程先の左手が医光寺前の駐車場で、説明板があり、右手の山が砦跡である。
大手は、医王寺に入らずに池の前を右手の方へ山すそを行くと民家の手前あたりに登り口がある。搦め手は、医王寺本堂から裏手に廻り、左手の墓地の一番奥から右手の山道を登る。

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現地の縄張図

主郭西側の土橋

長篠城を望む