長篠城  No23581−01 (ながしのじょう)       

本丸の空堀 左・豊川、中・長篠城、右宇連川

城郭の概要                  
別  名 : 末広城、扇城
所在地 : 新城市(旧鳳来町)長篠字市場22-1
築城年 : 永正5(1508)
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、空堀、井戸、
訪城日 : 平成26年8月24日

歴   史
長篠城は、永正5年(1508)に駿河の今川氏親に従っていた山家三方衆のひとり菅沼元成が築城し、元成を祖とする長篠菅沼氏代々の居城となった。
長篠菅沼氏は、永禄4年(1561)今川義元が桶狭間の戦いで討死した後、三河の国主として独立した松平元康(後の徳川家康)に従うようになったが、元亀2年(1571)武田信玄が三河に侵攻した際、武田方の天野景貫、秋山信友に攻められ、菅沼氏総領家である田峯菅沼氏の説得を受け入れ降伏、以後、武田氏に属した。
しかし、元亀4年(1573)再び三河に進攻した武田軍が急に西上作戦を中止し帰国すると、長篠城は家康に攻められ、正貞は開城して鳳来寺に退去した。長篠城を奪還した家康は、武田氏に備えるため城を修改築し、現存する大規模な土塁や堀などを構築した。
天正3年(1575)5月8日武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて、奥平貞昌が500の兵で守る長篠城に来襲した。武田の大軍に包囲され城中は兵糧も尽きかけ、貞昌は鳥居強右衛門に救援要請の使者を命じた。鳥居強右衛門は、単身で城を抜け出し、岡崎城の家康に会い援軍の約束を取付けて、再び長篠城に戻る途中武田軍に捕らえられた。強右衛門は、城中の将兵に「援軍は来ない、城を開け、武田軍は厚くもてなす」と叫ぶよう命じられて二の丸近くに立ったが、逆に「援軍は来る。この目で見てきた。あと2、3日堅固に守れ」と叫んだため、対岸の篠場野の地で磔に処せられたと云う。
5月18日織田・徳川連合軍が3万8千の大軍で設楽原に到着し陣を布くと、勝頼は20日夜長篠城から軍勢を動かし連子川を挟み連合軍と対峙した。21日長篠城包囲のために兵を残した砦の一つである鳶ヶ巣砦方面から火煙と喊声が挙がり、武田軍は背後を脅かされ、連合軍に対し総攻撃を開始した。
しかし、突進を繰り返す武田軍は、連合軍の馬防柵と鉄砲の連射に阻まれ、1万に及ぶ死傷者を出し大敗、甲斐に敗走していった。
長篠城は、この戦いにより激しい損壊を受けたため、天正4年(1576)貞昌は新城城を築いて居城をそちらに移した。これにより長篠城は廃城となった。

構造と感想
長篠の地は、豊川をさかのぼって約25km、信濃や遠江に通じる道中にあり、このあたりから平地が山地に移っていく。長篠城は、寒狭川(現豊川)と大野川(現宇連川)の合流点、水面から50mもある断崖上に築かれており、南側は川と断崖に守られ、北側は堀や土塁が三重に巡らされていた。合流点の野牛郭を起点に扇状に本丸、二の丸(帯郭)と弾正郭、三の丸(巴城郭)と服部郭(家老屋敷)、瓢郭と大手郭と梯郭式に配され、三重構造をしていた。長篠合戦では、外郭を占拠されたが、野牛郭、本丸、二の丸を最後まで守り抜いているが、500の城兵で守るにはこの3つの郭が限界であったと思われる。
現在は、野牛郭と本丸、弾正郭が原形を留め、本丸が公園として整備されている。二の丸と三の丸跡に設けられた駐車場に車を止め、南西方向を見ると本丸を囲む空堀と土塁が目に飛び込んでくる。その空堀と土塁は巨大なもので圧巻である。
JR飯田線の向こう側には野牛郭があり、櫓跡や殿井と呼ばれる泉が残されている。また、本丸の北西側には、矢沢川を隔てて弾正郭があり、土塁や石塁が残っている。
なお、帯郭跡の西端に史跡保存館があり、長篠の戦いに関する展示や武具など貴重な史料が見られる。また、長篠城の西方に設楽原合戦場があり、車で15分程行けば新城市設楽原歴史資料館や馬防柵が見られる。

道 案 内
新東名高速の新城インターを下りて国道151号を北方向に入る。国道151号を2.7km程道なりに進むと道路沿い右手に大きく「長篠城址」や鳥居強右衛門の看板が出ている。そこで右に入ると直ぐに城跡である。城跡は城址公園となっており、無料駐車場が整備されている。

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本丸の土塁

弾正郭の石垣