永正5年(1508)菅沼新八郎定則(田峯城主菅沼定忠の三男)が築城し、天文13年(1544)子の定村が跡を継いだ。その定村は、弘治2年(1556)雨山の戦い(織田方に寝返った田峯菅沼氏と作手奥平氏の討伐を今川義元が東三河の諸将に命じ、定村がその先鋒として阿知波定直の雨山砦を攻めた戦い。)で討死し、孫の定盈(さだみつ)が相続した。
永禄3年(1560)桶狭間の戦い後、定盈が三河松平氏(後の徳川氏)に属したため、翌永禄4年(1561)今川氏真は吉田城代・大原資良を将として野田城を攻めた。定盈は野田城を開城し、八名郡の西郷氏に身を寄せ、翌年には西郷氏の助けを借りて野田城を奪い返した。そして城の修理のため大野田城へ一時的に移った。
元亀2年(1571)武田信玄が三河に来襲すると、定盈は大野田城に火を放って再び西郷氏に身を寄せ、武田勢が兵を収めて帰国すると、定盈は修復なった野田城に戻っている。
元亀4年(1573)1月室町幕府第15代将軍・足利義昭の反織田信長包囲網に呼応した信玄が宇利峠を越えて再び三河へ進攻し、2万5千の軍勢で野田城を包囲した。定盈は僅か5百の城兵で防備を強化した野田城に1ヶ月に亘り籠城したが、水の手を断たれて開城、降伏し捕らわれた。
ところが、武田軍は急に京都に向かうことなく帰国し、東海地方における緊張が緩和され、同年3月人質交換で定盈は家康方へ帰参がなった。
天正18年(1590)家康の関東移封に伴い、定盈も上野阿保に1万石で配され、この地を離れたため、野田城は廃城になった。
なお、信玄が野田城攻めから突然帰国の途に就いことから、その理由として「野田城から流れる笛の音に聞き惚れて堀端に近づいたところを城中から火縄銃で狙撃され、負った傷がもとで死去した。」や「持病が悪化し死去した」など伝説が生まれている。狙撃したと伝わる場所が井戸の傍にあり、信玄が撃たれた場所が城の西側の法性寺にある。また、法性寺の山門は野田城の門を移築したもので、門の傍には野田城戦死病没者慰霊供養塔が建てられている。
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