野田城  No23221−01 (のだじょう)       

本丸への土橋 本丸の空堀

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 新城市豊島字本城
築城年 : 永正5年(1508)
形  式 : 丘城
遺  構 : 土塁、空堀、土橋、虎口、井戸、
訪城日 : 平成26年8月24日

歴   史

永正5年(1508)菅沼新八郎定則(田峯城主菅沼定忠の三男)が築城し、天文13年(1544)子の定村が跡を継いだ。その定村は、弘治2年(1556)雨山の戦い(織田方に寝返った田峯菅沼氏と作手奥平氏の討伐を今川義元が東三河の諸将に命じ、定村がその先鋒として阿知波定直の雨山砦を攻めた戦い。)で討死し、孫の定盈(さだみつ)が相続した。
永禄3年(1560)桶狭間の戦い後、定盈が三河松平氏(後の徳川氏)に属したため、翌永禄4年(1561)今川氏真は吉田城代・大原資良を将として野田城を攻めた。定盈は野田城を開城し、八名郡の西郷氏に身を寄せ、翌年には西郷氏の助けを借りて野田城を奪い返した。そして城の修理のため大野田城へ一時的に移った。
元亀2年(1571)武田信玄が三河に来襲すると、定盈は大野田城に火を放って再び西郷氏に身を寄せ、武田勢が兵を収めて帰国すると、定盈は修復なった野田城に戻っている。
元亀4年(1573)1月室町幕府第15代将軍・足利義昭の反織田信長包囲網に呼応した信玄が宇利峠を越えて再び三河へ進攻し、2万5千の軍勢で野田城を包囲した。定盈は僅か5百の城兵で防備を強化した野田城に1ヶ月に亘り籠城したが、水の手を断たれて開城、降伏し捕らわれた。
ところが、武田軍は急に京都に向かうことなく帰国し、東海地方における緊張が緩和され、同年3月人質交換で定盈は家康方へ帰参がなった。
天正18年(1590)家康の関東移封に伴い、定盈も上野阿保に1万石で配され、この地を離れたため、野田城は廃城になった。
なお、信玄が野田城攻めから突然帰国の途に就いことから、その理由として「野田城から流れる笛の音に聞き惚れて堀端に近づいたところを城中から火縄銃で狙撃され、負った傷がもとで死去した。」や「持病が悪化し死去した」など伝説が生まれている。狙撃したと伝わる場所が井戸の傍にあり、信玄が撃たれた場所が城の西側の法性寺にある。また、法性寺の山門は野田城の門を移築したもので、門の傍には野田城戦死病没者慰霊供養塔が建てられている。


構造と感想

野田城は、東三河の山間部と平野部の境に位置し、北側には東西方向に伊那街道が通り、北上すると長篠城や信州、遠江方面に、南下すると吉田城などがある東三河平野部に至る街道を押さえる役割を果たしていた。
立地は、本宮山麓からなだらかに延びた丘陵が、豊川に向け突き出した舌状台地先端に築かれ、かつては台地の東側が「桑ヶ淵」、西側が「龍ヶ淵」と云う淵で護られた比高差約18mを測る自然の要害地形である。現在は東側に杉川、西側に殿田川が流れ、西側は埋立てなどで改変が著しい。
城の構造は、丘陵続きの北側が大手で南北に延びる台地に、北から三の丸、二の丸、本丸の3つの郭を配した連郭式である。
主郭は、東西約60m、南北約47mの長方形で、南西部には素掘りの井戸が残る。南面と北面には高さ1m前後の土塁が付帯し、その外側に大規模な空堀が掘られている。その堀の西端は曲がっており、元は堀が四周を巡っていたと考えられている。現在の虎口は、北側中央と南東隅の2箇所に開いているが、古絵図では南西隅にも描かれており、東側から南西隅の下方に設けられた侍屋敷へ通じる虎口で、主郭側と侍屋敷側に馬出が設けられていた。北虎口は、土塁を乗り越えて出入りし、虎口東側の土塁が北側に張り出し、虎口に対し横矢を掛ける造りとなっており、虎口の防備性を高めている。
なお、二の丸より北は、全体的に後世の開墾等で改変され、また、手入れがなされておらず、雑木、雑草が繁茂し立ち入れる状態でなく、全体構造の確認は困難であるが、主郭は西側を除き良好に残存しており、その遺構からは非常に防御性が高い構造が見て取れ、武田軍が水の手を断つ戦法を採ったことに納得できる。


道 案 内
東名高速の豊川インターを下りて国道151号の北進方向に入る。国道151号を北に7.2km程行った川田交差点を直進し、430m程先の道路案内が出ている豊島交差点で右折する。200m程行くと左手に城跡への入口と説明板がある。

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城址碑         主郭北東部の張出し土塁

 
主郭北東部の張出し土塁から土橋を見る    移築門