亀山城  No23582−01 (かめやまじょう)       

本丸の虎口 本丸の土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 新城市(作手村)作手清岳字城山
築城年 : 応永31年(1424)
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、空堀、竪堀、虎口、
訪城日 : 平成26年11月30日

歴   史

奥平貞俊が天授年間(1375〜80)に上野国甘楽郡奥平郷より三河国作手の領主・山崎三郎左衛門高元を頼って落ち延び、鴨ヶ谷甘泉寺に寓居していたが、やがて人望を得て川尻城を築き居城とした。その後、応永31年(1424)に亀山城を築城して居城を移した。
初代貞俊以降、貞久・貞昌・貞勝・貞能と五代166年間に亘りこの地に住し、山家三方衆と呼ばれる有力土豪へと成長した。
戦国時代には、その時々の情勢により今川氏や松平氏(後の徳川氏)、武田氏に属し、元亀年間(1570〜73)は武田氏に従っていたが、天正元年(1573)信玄が没すると、奥平貞能・貞昌(後の信昌)父子は徳川家康に帰参を促され、一族、士卒で城を脱し滝山城(岡崎市宮崎)に入った。古宮城からの武田方の追手を撃退し、さらに家康の援軍も得て古宮城などの武田勢を駆逐してしまった。この功により貞昌は長篠城在番となり、天正3年(1575)2月には城主を命ぜられ、武田方との最前線に立つことになった。
天正3年(1575年)5月長篠城は武田勝頼の大軍に攻囲されたが、貞昌は城を死守し、設楽原の戦いでの織田・徳川連合軍の大勝に結び付けた。戦後、この功により織田信長より「信」の字を賜り信昌と改名、天正4年(1576)には新城城を築いて移り、家康の長女亀姫を正室に迎えている。
天正18年(1590)家康の関東移封に伴い、奥平氏も上野国甘楽郡宮崎へ3万石で移った。関ケ原合戦後の慶長7年(1602)奥平信昌の四男・松平忠明が作手藩1万7千石を領して亀山城を居城とした。慶長15年(1610)には伊勢国亀山へ5万石で転封となり、その後は元和5年(1619)頃の数年間、三河代官・小川又左衛門氏綱が居城したのち亀山城は廃城となった。


構造と感想

亀山城は、新城市北西部の山間地にある作手地区の中央付近に位置し、高里・清岳の盆地状平地の南東部に東から西に伸びる山稜の先端部が谷で切断され、やや南北に長い半独立状の丘稜に築かれている。
構造は、北よりの標高547m、比高約30mを測る頂部に四囲を土塁で囲繞された楕円形の本丸を置き、平入り虎口を南北に開けている。両虎口とも平入りであるが、北虎口は両側の土塁天端を広くし、更に前方に桝形状虎口を重ねている。桝形状虎口の東側には二の丸が構えられており、侵入者に四方より攻撃を加える強固な防御構造となっている。南虎口は前面に土塁を備えた西曲輪を構え、馬出機能を持たせている。西曲輪を出ると東側に一段高い南曲輪が迫り、その裾を回り込み下ると途中西側に西曲輪下方に位置する腰曲輪がある。南虎口に向け城外より城道を登ると南曲輪が前面を阻み、裾を回り込み進むと南曲輪や腰曲輪、そして西曲輪や本丸から攻撃を受ける。
これら主要部の周辺にも腰曲輪状の平坦部や空堀が廻らされ、北東部には機能不明の土塁で閉じられた東曲輪が置かれている。
この城で一番見応えがあるのは、虎口付近や空堀の遺構で、地元の方々による手入れが行き届いており、存分に楽しめる。
なお、南北虎口からの成道は、城下の蔵屋敷や姫屋敷などの屋敷群に通じていたようである。


道 案 内
新東名高速道の新城インターを下りて国道151号の南方向(新城市役所方面)に入り、5.3km程行った杉山北交差点で右折し国道301号に入る。最初は北上し、その後道なりに16km程行くと右手に道の駅「つくで手作り村」がある。その後方の丘陵が城山で城跡である。
道の駅より420m程先のT字路(亀山城の小さな道標がある。)で右折し、210m程行ったY字路で右手に進む。そこから200m程行った右手の丘陵が城跡である。なお、左側の100m程先が馬呂遺構である。

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    遠景         二の丸西側の桝形状虎口