古宮城  No23582−02 (ふるみやじょう)       

主郭の上段 中央の堀切

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 新城市(作手村)作手清岳字宮山
築城年 : 元亀2年(1571)〜天正元年(1573)
形  式 : 平山城
遺  構 : 堀、堀切、土塁、井戸、
訪城日 : 平成26年11月30日

歴   史
主郭の虎口と桝形

主郭の桝形

古宮城は、甲斐の武田信玄が元亀2年(1571)に宿将・馬場美濃守信房に命じて築かせたと伝わる。
元亀2年(1571)遠江・三河に侵攻して来た信玄に対し、奥三河を支配する山家三方衆(田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、作手奥平氏)は従うほかなく、各氏とも人質を出して恭順の意を示した。この時、信玄は三河支配と徳川家康攻略の拠点として亀山城の近くに古宮城を築き、小幡又兵衛、甘利左右衛門、大熊備前守らを城将として駐留させた。
天正元年(1573)信玄が没すると、奥平貞能・貞昌(後の信昌)父子は家康に帰参を促され、一族、士卒で亀山城を脱し滝山城(岡崎市宮崎)に入った。古宮城からの武田方の追手を撃退し、さらに家康の援軍も得て古宮城などの武田勢を駆逐したとされている。
この功により貞昌は長篠城在番となり、天正3年(1575)2月には城主を命ぜられ、武田方との最前線に立つことになった。


構造と感想

作手盆地の中央部、作手街道の東側、作手街道と伊那街道を結ぶ街道の北側に位置する比高約40mの宮山全域に築かれている。宮山は独立丘状を呈し、西側が作手街道を隔て賽ノ神城が築かれた本城山に近接する他は、水田となった湿地に囲まれている。
現状は、南山麓に白鳥神社が建立された以外、山林となっており、殆ど改変を受けておらず、完存状態で、高度な築城技術の遺構を堪能できる城跡である。
東西250m、南北200m程の宮山中央に南北に大きな堀切と竪堀が穿たれ、城域は東西に二分され、一本の土橋で連結されている。
東側頂部に四囲を土塁で囲繞された主郭が置かれ、南面に分厚い土塁を「コ」の字に折った内桝形状の虎口が設けられている。主郭中央西寄りには南北方向の土塁が築かれ、区分された西側は南西部が一段低くなっており、主郭内も三区画に分かれている。主郭東南隅にも平入り虎口が開き、東一段下の帯郭に通じている。南東隅部下方にL字型の横堀が入っており、帯郭南端から土橋を渡り、横堀の土塁上に出ることができる。この土塁の西端で内桝形状虎口下の帯郭に連絡し、この帯郭の西端で堀切を跨いで西側の城域と連絡している。主郭の北東斜面には腰郭が数面設けられ、竪堀・竪土塁で区画されている。山麓の北側から東側中程までは、二重又は三重の土塁が巡らされ、間は空堀となっている。東麓の南側は「馬場」と呼ばれている。
西側も頂部に塁で囲繞された主郭が置かれ、中央に南北方向の土塁が築かれ、二分されている。主郭東部の南北に平入り虎口が開き、それぞれテラスが付帯されている。北側の竪堀の両側は竪土塁を伴い、北虎口からその土塁上に出る。北から西側の斜面には幾重にも横堀が入れられ、堀底や土塁上を通る複雑な城内道を設定している。南西側が大手で両街道に通じていた。
全山に地山に即した普請を施しており、折り重なり滑らかにカーブする土塁や堀、巧妙な縄張り、そして、迫力に魅了される。時間を忘れ見回ってしまうこと間違いなしである。


道 案 内
新東名高速道の新城インターを下りて国道151号の南方向(新城市役所方面)に入り、5.3km程行った杉山北交差点で右折し国道301号に入る。最初は北上し、その後道なりに16km程行くと右手に道の駅「つくで手作り村」がある。その先へ1.1km程行った信号のあるT字路で右折し県道436号線に入り、210m程先の左手に白鳥神社があり、その北側背後の山が城山で入口に案内板が設置されている。

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 西の主郭の土塁と空堀        西の多重堀