田峯城  No23561−01 (だみねじょう)       

大手門跡から御殿を望む 空堀と木橋

城郭の概要                  
別  名 : 蛇頭(じゃずが)城、龍ノ城
所在地 : 北設楽郡設楽町字田峯字城
築城年 : 文明2年(1470)
形  式 : 山城(500m/50m)
遺  構 : 土塁、横堀(空堀)
訪城日 : 平成31年3月21日

歴   史
文明2年(1470)菅沼定信が築いた。
菅沼氏は、土岐氏庶流の土岐定直が作手郷菅沼を領し、地名を姓にしのが始まりとされ、定直の嫡子 定成が嘉吉(1441〜44)の頃に田峯に移り、現在の田峯観音の地に館を構えたと云われる。定成の子 定信は、田峯を根幹の地とするため、本格的な城を築いた。それが田峯城である。
田峯菅沼氏は総領家で、一門はそれぞれの地名を取って田峯菅沼氏、島田菅沼氏、長篠菅沼氏、野田菅沼氏と呼ばれた。
二代城主の定忠は、駿河の今川氏親の勢力が伸張し、遠江から三河に及んでくると今川に従った。。永正12年(1516)には今川氏の命により遠江社山城へ出陣している。翌 永正13年(1516)には武節に進出し武節城を築いている。
三代城主の定広は、豊川流域の新城上平井の大谷城に嫡子 定継、新城布里の布里城に三男 定直、新城大野の大野城に五男 定仙を配し、版図の拡大と支配の強化を図った。
四代城主の定継は、享禄2年(1529)東三河に松平清康が侵攻してくると清康に従ったが、天文4年(1535)守山崩れで清康が横死すると、再び今川の麾下に復した。この頃、東三河は、東の今川、北の武田、西の織田と強大な戦国大名がせめぎ合う地になっていた。弘治元年(1555)定継は、作手の奥平貞勝に誘われ織田に通じたが、この際、菅沼一門には今川方に留まるものが多く、一族を二分した争いに発展した。定継は今川の援軍を得た弟 定直に討たれ、定直が田峯城主となった。定継の子で3才の小法師丸は殺されずに定直により養育された。
永禄4年(1561)定直は松平元康(のちの徳川家康)に属し、遺領を安堵され小法師丸(8歳、のちの定忠)を田峯城主とすることを許された。後見役は定直で、家老は城所道寿、城所清蔵、伏木久内尉、今泉道善らが付き幼主を支えた。元亀2年(1571)武田の手が三河に伸び、秋山信友が2千3百の軍勢を率いて奥三河に侵攻し、まず田峯城の主席家老 城所道寿の調略に成功した。田峯城では定直や次席家老の今泉道善らが武田に付くことを反対したが、若き城主定忠は道寿を信頼しきっており、躊躇なく武田に付くことにした。道寿は、長篠城(長篠市場)の菅沼正貞、亀山城(作手清岳)の奥平貞能、島田菅沼氏の久助取り込みに成功したが、野田菅沼氏の定盈には失敗した。
奥三河に滞陣していた信玄は、山県昌景、相木市兵衛らの軍勢と定忠率いる田峯衆を先手として大野田城を攻めさせると、定盈は城を捨て逃走した。こうして山家三方衆(田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、作手奥平氏)は武田氏に属することになり、人質が甲州へ送られることになった。田峯菅沼からは道寿の娘と家老伏木久内の弟が出された。
翌 元亀3年(1572)の三方原の戦いには定忠は四十騎を率いて参戦、年が明けての野田城攻めは定忠ら山家三方衆の請願によって行われたと云われている。定盈を生け捕りにし、浜松にいる三方衆の人質と交換するためにであった。
天正元年(1573)奥平貞能が徳川方へ寝返ったが、定忠と道寿は武田方への忠節を曲げることはなかった。
天正3年(1575)長篠の戦いには、定忠は今泉道善らに田峯城を守らせ、城所道寿ら軍勢200を率いて武田方に参陣した。設楽原の戦いでは、山県昌景隊に属し徳川勢と死闘を演じた。しかし、山県昌景をはじめ武田の名のある武将が次々と討死、武田の敗色が濃くなると、定忠と道寿は、武田勝頼の退路を開くために田峯衆を戦場から引き上げさせ、火灯山の麓に向かった。そして、敗走する勝頼一行を先導して田峯城まで辿り着いた。ここで勝頼一行に休息してもらうつもりであったが、留守居の菅沼定直と今泉道善らが定忠らの入城を拒絶し、締め出してしまった。
定忠と道寿は、腸の煮え返る思いで城を離れ、勝頼一行と武節城へ向い、ここで休息をとった。そして勝頼らは信濃国飯田を経て甲斐へと戻って行った。復讐に燃える定忠は、伊奈浪合村で勝頼らと別れる時、勝頼から田峯城討伐の許しを得た。定忠は、自身が自害したという噂を流して定直らを油断させ、天正4年(1576)7月14日未明、盆で城の警備が手薄となったのを衝いて田峯城を急襲、定直以下老幼男女を問わず一族郎党96名を惨殺し、その首を作手街道の平野の辻に晒したと云う。殊に今泉道善への恨みは凄まじく、首だけ出して生き埋めにし、ノコギリで首を切り落とす「鋸引きの刑」に処したといわれる。その後、定忠らは再び伊奈に引き揚げ、伊奈支配の下条信氏の配下に加わり、武田方の前衛の一端を担っていたようである。
天正10年(1582)織田信長により武田氏が滅ぼされると、定忠は徳川氏に帰参を願い出るが許されず、信濃国伊那郡知久平にて牛久保城(豊川市)の牧野康成に誅殺された。その後、田峯の遺領は道目記城主の菅沼定利(定直の長男)が継ぐことになった。天正11年(1583)定利は徳川氏の伊那郡代として知久平城(長野県飯田市)に入城しており、このとき田峯城は廃城になった。天正18年(1590年)定利は、家康の関東転封に従って関東に赴き、上野国吉井に2万石を与えられ、上野吉井藩の初代藩主となった。

構造と感想
田峯城は、寒狭川(豊川)が東へ蛇行した所に張り出した台地の東端に比高30mの小さな独立丘陵があり、その山上に築かれている。独立丘陵の北東側は谷、南側は急斜面で寒狭川に向け落ち、東は支尾根が伸び、西側のみ台地続きで、空堀を設け防御している。
標高387mの頂部に本丸が置かれ、北西斜面に階段状に郭が設けら、その名称に人名が付いており、基本的に屋敷の集合体と考えられている。
本丸の南東隅に櫓台があり、その北側に搦手虎口が開く、現在、本丸には御殿、大手門、厩、搦手門、物見台などが建てられている。本丸の南西下の腰郭は「御台様屋敷」、一段下で御台様屋敷を囲む帯郭が「畷郭」、本丸の北西下に「道寿郭」、道寿郭の西下に「蔵屋敷」、その南西側に「井戸郭」、西から北側の最下段に広大な腰郭が「表郭」と「裏郭」、最下段の南側に一段下がって西へ張出したのが「大手門跡」で、空堀に木橋が架かっている。
本丸の東側は帯郭や腰郭が数段あり堀切で遮断、その外にも郭と堀切があるようだ。
物見台から眺める寒狭川とV字渓谷の景色は素晴らしいようだが、残念ながら雨が降っており、全く見えなかった。

道 案 内
新東名高速道の新城インターを下りて国道151号の北方向に入る。1.9km程行った豊川を渡る手前の有海交差点で左折して国道257号に入る。国道257号を20km程行くとトンネルを抜け豊川に突き当たる。そのT字の田峯交差点を右折する。県道389号線に入り270m程先の橋を渡る手前のT字交差点で山側へ右折する。右折して直ぐを右手に曲ると左手に田峯城の小さな案内板がある。道なりに1.3km程行くと案内板があり、そこで左折し、190m先左手に田峯城駐車場の入口がある。

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                       御殿


     搦手門               御台様屋敷と畷郭


道寿郭                 蔵屋敷