武節城  No23545−01 (ぶせつじょう)       

主郭と大土塁 背後の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 地伏城
所在地 : 豊田市(旧稲武町)武節町シロ山
築城年 : 永正年間
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、堀切
訪城日 : 平成31年3月21日

歴   史
永正年間(1504〜21)に田峯城の菅沼定信が築いたとされる。
弘治2年(1556)武田の家臣下条信氏によって、武節城、川手城等が攻略されたと云われるが、永録3年(1560)の桶狭間合戦に際して菅沼久助が今川氏真より「武節筋堅固走廻」の感状を受けたとの文書が残り、菅沼氏が領していたと見られている。
元亀2年(1571)武田氏が三河に侵攻し、田峯の菅沼定忠、作手の奥平貞能、長篠の菅沼正貞は武田に従い、この時、武節城も武田氏に降った。
信玄没(元亀4年(1573))後、天正元年(1573)徳川家康の嫡男 信康が武節城を落城させ初陣を飾った。田峯菅沼氏を含む山家三方衆は武田氏側と徳川氏側に分裂した。
翌 天正2年(1574)武田勝頼が美濃・三河へ侵攻し18城を落としており、この際に武節城も落ちている。
天正3年(1575)長篠合戦に敗れた武田勝頼は甲斐へ逃れる途中、田峯城主菅沼定忠の案内で田峯城へ立ち寄ろうとしたが、留守を守る今泉道善などが反逆を起こして入城できず、この武節城に立寄って梅酢湯を喫し、信濃を経て甲斐へ戻ったと伝えられる。
菅沼定忠は武節城に籠城したが、同年、織田信長の命を受けた佐久間信盛、奥平貞能、信昌に攻められ落城、他の武田氏側の山家三方衆と共に伊那に拠点を移して抵抗を試みるが、最後は武田氏と運命を供にした。
武節城が落城した後は、徳川氏についた山家三方衆の奥平氏が領し、その後は家康の命を受けたた松平真乗が武田氏に備えて守備した。
天正18年(1590)徳川氏の関東移封により、奥平信昌も家康に従って上野宮崎に移り武節城は廃城となった。

構造と感想
武節城は、北流する名倉川と東流する黒田川が合流する地点の南西450mに位置する標高545m、比高40mの城山頂部に築かれた平山城である。信州との国境に近く、飯田街道の交通の要衝であり、国境の城として争奪戦が繰り広げられた。
山頂に台形の本丸を置き、西側に大土塁が付帯し、大土塁は櫓台を兼ねたとされ、現在は城山八幡神社が鎮座していることから、その大きさを想像できるのでないか。
主郭の背後は堀切で、両側に長い竪堀が落ちている。堀切の外側は外郭群で、頂部の四郭を中心に折り重なるように腰郭や段郭が連なり、西側に何段か降りたところに四郭と同等規模の郭があり、「鐘搗堂」と呼ばれている。
城の主要部は、主郭から北東下方に階段状に連なる二郭と三郭からなり、二郭は主郭側に細い幅の上段が付帯し、三郭はかなり広く、北西部で舗装道路の設置により分断されたか。主郭から三郭の南東側面の切岸は切り立っており見応えがある。二・三郭の北西にも多数の腰郭や帯郭が構築され、丘陵全体に多数の郭が配置された大規模な城郭である。
また、山裾の近く北東側を飯田街道が通り、その両側は短冊状の地割が並び、さらに大門の地名の残る所から飯田街道に向う道の東側にも短冊状の地割が並び、城下が形成されていたか。
飯田街道から城山の北隅、そして山頂に向う道が大手と見られており、その付近の地割は広く方形であり、他と異なる用途であった可能性が指摘されている。

道 案 内
国道153号沿いにある道の駅「どんぐりの里いなぶ」の東側に見える丘陵が城跡である。
道の駅「どんぐりの里いなぶ」の一本東側の細い道の北方向に国道153号から入り、150m程先のT字路で右折する。後は道なりに坂道を登り切った終点が主郭である。主郭に駐車可。
なお、旧稲武町は、東三河の北設楽郡、東加茂郡を経て、現在は豊田市の一部となっている。

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主郭の大土塁          主要部東側の切岸


二郭の南西方向      三郭の南東方向


主要部の北西側         背後の北西側竪堀