姫城  No20521-03 (ひめじょう)       

主郭北方向 主郭北側の堀切

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 埴科郡坂城町坂城(葛尾山)
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、
訪城日 : 平成23年6月4日

歴   史
村上氏の本城である葛尾城の出城とさる。
村上氏は清和源氏頼信流で嘉保元年(1094年)に曾孫の源盛清が対岸の更級郡村上郷に流罪となり、その子為国が村上氏を称したことに始まる。南北朝時代の末頃に坂城に移り、以後、坂城を本拠にしたと云う。その後、守護の小笠原氏と領地争いを繰り広げたが、思うようにならず村上氏が室町幕府に服従し収まった。
嘉吉元年(1441)、将軍足利義教が殺され、翌年、守護の小笠原正透が死ぬと、信濃国内は騒然と してきた。村上政清は混乱に乗じて自領の拡大を図って周辺の国人を攻めた。義清の代には佐久、小県、更級、埴科、高井、水内の各郡を従え、東北信で最大の勢力となった。
天文17年(1548)の上田原合戦、天文19年(1550)の戸石城合戦と甲斐の武田信玄を二度に亘って退けたが、天文20年(1551)信玄に与していた真田幸隆に戸石城を落とされ、天文22年(1553)一族の屋代氏などの武田氏方への寝返りを受け、ついに越後の上杉謙信を頼って落ち、葛尾城は自落した。その後、すぐに越後の援軍を得て葛尾城を搦手方面から攻め、武田方守将の於曽源八郎を討取り、義清は塩田城に入って再帰を計ったが、信玄に攻められ、義清は再び越後へと逃れ、塩田城には飯富虎昌が入れられた。
天正10年(1582)、武田氏滅亡後は、織田信長の家臣・森長可が海津城に入り、北信四郡を領したが、直後に信長が本能寺の変に斃れ、上杉景勝がこの地を領して、義清の子景国を海津城将とし、副将には屋代左衛門尉秀政を任じた。これで村上氏は復帰なったかに思われたが、秀政が徳川に内通し、その責任を問われて景国は罷免され、故地への還住は叶わなかった。

構造と感想
葛尾城のある葛尾山(816m)から南西に尾根筋を800m程降った小ピークの矢場佐久間(標高646m)に築かれており、葛尾城の支城の一つとされる。同じような標高にある姫城、大段、岩崎城の南側は断崖となって千曲川に落ち込む要害地である。
主郭は南端の頂部に置かれ、南北を堀切で区画している。主郭の北側に小さな郭が三段あり、その一段下がって約100mに亘り平坦地が続き、所々に土塁が残る。北端に堀はなく、登りの尾根となっている。この細長い平坦地は馬場と呼ばれている。
三段の小郭の西山腹には長大な竪堀が落ちている。この竪堀の上端部に「灯の松」の標柱があり、これは村上義清の奥方が姫城から逃げる際に松明を灯したという伝承からきたものでる。
なお、葛尾城と構築様式が異なり、築城時期はやや下がるとみられる。また、姫城の名は後世なづけられたものである。

道 案 内
葛尾城から南へ尾根筋を800mほど降って行くと姫城に至る。姫城から大段を通り抜け岩崎城へと行けるが、途中で道がわからなくなっている。

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馬場               馬場の土塁