荒砥城 No20218-01 | (あらとじょう) |
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二郭の復元門 | 二郭の兵舎と冠木門 |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : 山田城、砥沢城 |
所在地 : 千曲市(更級郡上山田町)上山田字城山3509-1 |
築城年 : 大永4(1524) |
形 式 : 山城 |
遺 構 : 石垣、虎口、復元門、復元櫓、復原建物、 |
訪城日 : 平成23年6月4日 |
◆ 歴 史 |
大永4年(1524)、当地一帯を治めていた地方豪族村上氏の支族にあたる山田氏により築城されたと伝えられるが、はっきりしていない。 天文21年(1552)、荒砥城主の山田国政は戸石城において真田幸隆の急襲によって戦死したとされ、代わって村上義清家臣の屋代政国が城主となった。 天文22年(1553)、武田信玄の侵攻により、政国、塩崎城主の塩崎氏らが武田方へ内応したため、村上義清は葛尾城を捨て、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとに逃れた。その後、義清は旧領を奪還し、塩田城に籠城したが、武田方に攻められ城を脱出して逃亡した。これを受け景虎は信濃に出陣し、第一次川中島の合戦(布施の戦いあるいは八幡の戦い)へと発展した。長尾勢は武田勢を破り、荒砥城を占領したが、翌年には信玄に奪い返されている。 天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると荒砥城主の屋代秀正(政国の養子)は上杉景勝に属し、上杉氏の海津城(のちの松代城)の城代山浦景国(村上義清の嫡男)の副将に配された。しかし、天正11年(1583)、徳川家康が秀正に更級郡の安堵を密約したことから上杉氏を離反し、荒砥城に立て籠もったが、景勝勢に攻められ落城、秀正は家康のもとに敗走し、荒砥城は間もなく廃城となった。屋代氏はのちに徳川家の旗本に取り立てられ近世まで存続した。 |
◆ 構造と感想 |
冠着山から東方の千曲川へ向かって伸びる支脈尾根の先端部にあり、千曲川対岸の丘陵との間が極端に狭く、戦略上重要な位置に築かれている。 |
◆ 道 案 内 |
上信越自動車道の坂城インターを降りて左折し県道91号線に入る。西に1.4km程行った突き当たりの坂城IC入口交差点で右折し国道18号に入る。国道18号を北に5.5km程行った戸倉上山田温泉入口交差点で左折し県道498号線に入る。500m程西進して千曲川に架かる万葉橋を渡る。橋を渡り終えて380m程先の城山入口交差点を直進すると山へ上がっていく。雲龍寺で道は右に急カーブし、そこから250m程進むと荒砥城の看板があり、そこで戻るように右折し、そのまま進むと無料駐車場に至る。 |
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![]() ![]() ![]() 主郭より葛尾城を望む 五郭の復元柵 |