高浜城  No18481−03 (たかはまじょう)       

砕導山城より望む 主郭

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 大飯郡高浜町事代
築城年 : 永禄8年(1565)
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、櫓台、石垣、
訪城日 : 平成27年11月7日

歴   史
永禄4年(1561)逸見駿河守昌経は若狭守護武田義統と子・元明の父子争いに乗じて、国吉城の粟屋勝久と共に叛乱を起こしたが、越前朝倉氏が国吉城を攻め、義統が総力を結集して昌経を砕導山城に攻め落城させた。
しかし、逸見氏は武田一門衆として国人層に大きな影響力を持っており、砕導山城の落城後も勢力を保ち、永禄8年(1565)には高浜城を築城し居城とした。
そして、いち早く織田信長に属し、元亀元年(1570)には信長の越前侵攻を粟屋勝久・内藤勝行らと熊川城に出迎え、信長の被官として各地を転戦したが、昌経の死後、逸見氏は改易となった。
その後、高浜城主は溝口秀勝、山内一豊、木下利房と代わり、関ヶ原合戦で利房が西軍に属し転封となり、代わって京極高次が若狭国主となり、小浜城を築城し移ったため、高浜城には重臣佐々義勝を城代として入れた。
酒井忠勝が若狭に入部した寛永11年(1634)に高浜城は廃城にされた。

構造と感想
若狭湾に面した高浜町の中央部海岸線に突き出した城山と呼ばれる小半島の先端に築かれていた。若狭で最初の平山城とされ、山上に主郭を置き、平地に二の丸、三の丸があって、三の丸には堀を設け南側の遮断としていたようである。他の三方は海を堀とする巧みな造りであった。
山頂の濱見神社が鎮座する高台が物見櫓台で、西側に石積みが施されている。櫓台の東側に広がる平坦地が郭跡であろう。 城山荘前には太鼓櫓跡の土塁も残っているようである。
主郭からの眺望は素晴らしく、山麓を含め城山公園として整備され、観光地になっている。

道 案 内
舞鶴若狭自動車道の大飯高浜インターを降りた大飯高浜インター口交差点で左折し県道16号線に入る。北方向に道なりに4.7km程行くとU字ターンして国道27号との薗部口交差点に出る。同交差点で右折して国道27号を900m程西進した高浜駅交差点で右折し県道236号線に入る。北に550m程行く海岸道路に突き当たる。右折して海岸沿いを440m程走ると城山荘に突き当たる。その背後の山が城跡である。城山荘を右に回り込み神社への参道を登って行く。

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