砕導山城  No18481−02 (さいちやまじょう)       

愛宕神社の建つ郭 千丈ケ嶽西側の堀切と土橋

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 大飯郡高浜町宮崎
築城年 : 天文・永禄年間(1532〜70)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堅堀、堀切、土橋、
訪城日 : 平成27年11月7日

歴   史
砕導山城は、若狭守護武田氏の重臣である逸見氏の本城である。
逸見氏は、武田氏と同族で、甲斐源氏が祖とされ、常陸国より甲斐の巨摩郡逸見郷に配流となった武田義清が勢力を扶養し、子の代に逸見氏と武田氏に分流したとされ、両氏は甲斐の名族であったが、次第に武田氏が主流となり、各地の守護を獲得するなど繁栄していった。
永享12年(1440)安芸武田氏の信栄が若狭守護に付き、熊谷信直、山縣信政、粟屋繁盛らを同道し若狭に入部したが、逸見氏は在京し奉行人として政務の補佐にあたっていた。しかし、嘉吉年間(1441〜44)に入ると若狭国内では、一色牢人の蜂起や一揆が起こり、逸見氏も若狭に入部するに至った。
応仁の乱((1467〜77)では東軍に属した若狭武田氏の重要な軍役を逸見氏が担い、京の洛東方面で弾正忠繁経が西軍方と戦い、また、幕府より若狭武田氏に丹後守護職(前守護は一色氏(西軍))も与えられたことから、駿河守真正が丹後に討ち入り一色勢と各地で戦った。しかし、繁経が乱のさなかに討死にし、真正も丹後で自害に追い込まれ、逸見氏は大きな打撃を被った。
延徳2年(1490)若狭守護・国信が死去し、元信が守護職を継ぐと、粟屋氏が重用され、逸見氏に代わって実権を握り、これを不満とする逸見国清は、永正14年(1517)丹後守護代の延永春信と謀り叛乱を起こすが、朽木稙広や朝倉孝景の援軍を得た元信に敗退し、降伏した。その後も逸見氏は存続したが、権力は大きく失墜させた。
ふたたび逸見氏が力を得るのは天文・永禄年間(1532〜70)の駿河守昌経の出現を待たねばならなかった。砕導山城は復権を果たした昌経が築いたと考えられている。
弘治2年(1556)信豊と子の義統に家督争いが起きると、昌経は信豊に付くが信豊は近江に亡命し、昌経は丹波守護代松永長頼(久秀の実弟)と国吉城主粟屋勝久と謀って、永禄4年(1561)叛乱を起こし砕導山城に籠った。この際、松永軍と合わせて8,000とも云われる軍勢を収容するため、砕導山城を拡張したと考えられている。
これに対し、義統は朝倉義景の援軍を得て砕導山城を落城に追い込んだが、逸見氏を完全に追い落とすことは出来ず、永禄8(1565)昌経は水軍も考慮した若狭国内初といわれる平山城の高浜城を築いている。そして砕導山城はその支城として維持したとされる。
永禄9年(1566)今度は義統と子息元明との争いが勃発すると、義統には再び朝倉氏が加勢、元明には逸見、粟屋氏が付いたが、またもや昌経は敗北を喫してしまう。
しかし、若狭守護武田氏に守護家としての力は無く、永禄10年(1567)元明が朝倉氏に拉致され一乗谷に連れ去られると、逸見、粟屋氏らは織田信長に通じ、元亀元年(1570)の信長の朝倉攻めに加わり、天正3年(1575)の越前一向一揆攻めでも水軍を率いて参陣した。
天正9年(1581)2月、昌経は京での信長の馬揃えに一番衆として馬場入りし、所領も3千石の加領を受け、若狭衆の筆頭格にあったが、翌3月に病没、子があったとされるが家督相続は認められず、逸見氏は改易となり、砕導山城は廃城となった。

構造と感想
砕導山城は、若狭西域の高浜町の中央部に位置し、佐岐治神社の裏山一帯の東西約1km、南北約650mに亘る領域に築かれた福井県最大の山城である。
城は西側の砕導山(標高142.6m)を中心とする郭群、中央の千丈ヶ嶽(標高120.3m)に主郭を置く郭群、東の天王山(標高72.5m)からの尾根筋や南東斜面に帯状郭が展開する郭群で構成されている。
佐岐治神社の鳥居右手の山へ登っている道が砕導山(現在は妙見社が祀られていることから妙見山と呼ばれている。)まで続いている。妙見社が建つ山頂部に主郭と両翼に数段の腰郭を付帯させたT郭群、北西に延びる尾根筋を凡そ100m下った愛宕神社が建つ小ピークに頂部の円形郭に帯郭が付帯させたU郭群、そこから凡そ160m下った忠魂碑が建つ小ピークの郭と下方に多数の段郭を連ねたV郭群からなっている。T郭群の北側は二条の堀切で遮断されている。なお、V郭群に続く下方に扇形の幅2、3メートルの帯状郭を雛壇状に連続させているが、その形態は天王山の郭群に相似しており、永禄4年(1561)の叛乱時に付加されたものか。
愛宕神社から南西へ凡そ180m、鞍部を経て千丈ヶ嶽の山頂に主郭を置き、北東と東側尾根に2、3段の段郭を設け、間を帯状郭で繋いでいる。主郭の北側下辺に連絡路が通り、その西側と東側に見事な堀切と竪堀を入れている。西側の堀切には明瞭な土橋が架かっている。
千丈ヶ嶽の通路を東へ進み堀切を越えると天王山郭群が始まる。天王山を頂点として東西側の尾根筋と南側の二本の支尾根筋に階段状に段郭を配置し、そして南西斜面に扇形の幅の狭い帯状郭を雛壇状に連続させている。この帯状郭は千丈ヶ嶽の南西山裾にも設けられている。この天王山郭群は、丹後街道への備えと子生川沿いの大飯町への道を意識した備えとなっている。
この部分が最も古くからあった城郭部分と思われるが、
砕導山を中心とする郭群と千丈ヶ嶽の郭群が、当初からの城郭部分と見られ、天王山や山裾に設けられた郭群は砕導山を中心とする郭群や千丈ヶ嶽の郭群と構造が大きく異なっており、永禄4年(1561)の反乱の際に急拵えで拡張された城郭部分と推測される。

道 案 内
国道27号線小浜市の後瀬山トンネルから西へ27km、あるいは、舞鶴若狭自動車道の大飯高浜インタを下り、県道16号線を高浜町中心部に向かいます。5km先でU字の高架で下り、薗部口の信号を右折し国道27号線に入ります。500m先の宮崎の信号で左折し、100m先でJR小浜線を越え、その先の佐伎治神社に向かいます。 

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縄張り図(福井県史より)

 
千丈ケ嶽西側の畝状竪堀      千丈ケ嶽東側の堀切