高取城  No29401−03 (たかとりじょう)       


本丸北面の石垣

上の門跡と天守石垣

城郭の概要                  
別  名 : 芙蓉城、鷹取城、高取山城
所在地 : 高市郡高取町上子嶋
築城年 : 南北朝時代
形  式 : 山城
遺  構 : 天守台、門(移築)、石垣、水堀、堀切、竪堀、井戸、
訪城日 : 平成24年5月26日

歴   史
高取城は、南北朝時代に南朝方であった越智邦澄が正慶元年(元弘2年・1332)に築城したと伝えられる。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していたが、戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていたようである。
その後、天正8年(1580)織田信長によって出された破城令によって破却されたが、本能寺の変で信長が横死した後の天正12年(1584)筒井順慶が郡山城の詰城として高取城の再建を行った。同年順慶が没し跡を継いだ定家は、天正13年(1585)伊賀国上野へ転封となり、郡山城には豊臣秀吉の異父弟・羽柴秀長が入城した。秀長は高取城に家臣の脇坂安治に次いで本多正俊を入れ、天正17年(1589)から高取城の大改修を行わせた。
文禄4年(1595)秀長の子・秀保が没して大和大納言家は断絶するが、本多氏は1万5千石を領して高取城に残り、関ヶ原合戦では徳川家康の東軍に属し1万石の加増を受けた。しかし、寛永14年(1637)本多政武が嗣子なく没したため、断絶となった。
寛永17年(1640)に植村家政が2万5千石で入封し、当初は藩主は高取城内の屋敷に居住していたが、数年後には山麓の下子島に下屋敷が造られ、家臣も斬次山を下りて、城下町の土佐から子島にかけて武家屋敷が並ぶようになった。山城を下りてからも植村藩では幕府から常普請を許されていたので、山上の城郭を補修し続けたが、要害を誇った高取城も明治2年の版籍奉還後に明治政府の兵部省の所管となり、明治6年に廃城となって建造物も取り壊された。

構造と感想
高取城は、標高583.9mの高取山の山頂に築かれた山城である。岐阜県の岩村城、岡山県の備中松山城とともに日本三大山城の一つに数えられている。
往時は、山頂の今に残る石垣群の上に白亜の三層大天守や小天守、無数の櫓、連なる土塀などの建造物が建ち並び、大和平野から見るその姿は、『巽 高取雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城』とうたわれたほどであった。
高取城は、山上に点在するすべての郭を含む広大な範囲を「郭内」と呼び、その中でも二の門・壺坂口門・吉野口門で厳重に守られた城域を「城内」と呼んだ。城内となる二の門から本丸までには、十基の門が設けられ、特に大手門から内部の二の丸と本丸部分は壮大な高石垣が築かれ、非常に堅固な造りとなっており、現在でも迫力ある見応えは十分である。また、二の門の前には山城では珍しい水堀が設けられおり、防備の厳重さが窺い知れる。
しかし、二の門から松の門まで間に連なる侍屋敷の石垣は崩壊が進んでおり、無残な姿となっているのが残念である。

道 案 内
国道169号で橿原から南下して高取に入る。下土佐交差点を過ぎて1.5km程行った清水谷交差点で左折し県道119号線に入る。道なりに山を上がって行き途中で左手の「壺阪寺」を過ぎて2.8km程来るとY字路があり左手の道に入る。県道119号線をキープしつつ更に2.2km程行った道の突き当たりが城跡のすぐ下(七つ井戸)である。突き当たりで駐車できる。

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 国見櫓からの眺望           新櫓台跡 

 
七つ井戸の上方石垣        城代家老長屋門

 
水堀跡              大手門跡