大和郡山城  No29203−01 (やまとこおりやまじょう)       

東隅櫓と毘沙門郭石垣 天守台

城郭の概要                  
別  名 : 犬伏城
所在地 : 大和郡山市城内町
築城年 : 天正8年(1580)
形  式 : 平山城
遺  構 : 天守台、石垣、堀、虎口  復元 : 追手門、向隅櫓、多聞櫓
訪城日 : 平成24年5月26日

歴   史
天正5年(1577)織田信長から離反した松永久秀は信貴山城に攻め滅ばされ、その城攻めの先鋒を務めた筒井順慶に大和一国が与えられた。
順慶は、代々の居城であった筒井城を拡張したが、天正8年(1580)郡山城に移り、本格的な城郭へと修築し、新たな居城とした。本能寺の変の後も羽柴秀吉から大和一国を安堵されたが、天正12年(1584)に28歳の若さで死去し、養子の定次が跡を継いだが、天正13年(1585)に伊賀国に転封となった。
代わって豊臣秀吉の異父弟の豊臣秀長が大和、紀伊、和泉で百万石を領し郡山城に入城し、大幅な拡張工事を行ない、ほぼ現状の規模の城郭を完成させた。なお、この際に多数の五輪塔や石仏(地蔵)などを石垣石に転用している。また、奈良から商人を移すなど城下町の整備にも注力した。
しかし、天正19年(1591)秀長は没し、養子の秀保が跡を嗣ぐが、文禄4年(1595)17歳で急死したため、大和大納言家は断絶となった。
その後には、豊臣政権五奉行の一人である増田長盛が22万3千石で入城し、堀と土塁で城下町を囲む惣構えを構築し、城郭都市として整備した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで長盛は石田三成の西軍方に属して改易となり、郡山城も破壊され、建物のほとんどが伏見城に移築された。城地は奈良奉行所の管轄下に入り大久保長安などの代官が在番した。
そして、一時荒廃していた郡山城に元和元年(1615)大坂夏の陣で功績のあった三河刈谷城主・水野勝成が6万石の領主として入城し、幕府の助力を得て城の修築を行うが、元和5年(1619)備後福山に転封となり、代わって摂津大坂より12万石で松平忠明が入封。以後、本多氏二代、松平氏一代、本多氏五代を経て、享保9年(1724)五代将軍徳川綱吉の側用人として勢威を振るった柳沢吉保の子である吉里が甲府城から郡山城に入り、幕末まで柳沢15万石の居城となった。

構造と感想
天守台より追手門を望む
郡山城は、内堀、中堀、外堀という三重の堀に囲まれた惣堀の構えで、この中に城の中枢部や武家地、城下町が配置されていた。
柳沢神社のある本丸を中心に東に毘沙門郭、三ノ丸、西に御厩郭、麒麟郭、南に二ノ丸などが配された縄張り、さらに内堀や高石垣が良好な状態で残っている。柳沢神社北側の天守台石垣には墓石や地蔵などが転用石として多く使われ、地蔵を逆さまに積んでいることから名付けられた「逆さ地蔵」が特に有名である。
また、近年になって梅林門(追手門)、月見櫓、大手東隅櫓、多聞櫓が木造で黒板張り姿に復元され、往時の威容が蘇りつつある。
毘沙門郭には、柳沢文庫があり、歴代柳沢藩主自筆の書籍や絵画をはじめ、貴重な古文書が収蔵され、学術的にも貴重なものとされている。
南門外の二ノ丸に郡山高校グランドがあり、その西側にある永慶寺(柳沢氏の菩提寺)には、豊臣秀長時代の南御門を移築した山門が残されており、貴重な遺構である。
 
 追手門            本丸堀と石垣

道 案 内
西名阪道の郡山インターを下り、国道24号の奈良市方面(北方向)に入る。4.6km程北進した西九条町南交差点で左折する。1.6km程西進した左手が城址である。

TOPへ 戻る