木幡山城  No26104−10 (こはたやまじょう)       

旧遊園地の模擬天守 桃山御稜、背後が木幡山山頂

城郭の概要                  
 (北堀跡)
別  名 : 伏見城、桃山城、伏見桃山城
所在地 : 京都市伏見区桃山町
築城年 : 文禄5年(1596)
形  式 : 平山城
遺  構 : 堀、石垣、移築門、
訪城日 : 平成27年6月20   

歴   史
文禄元年(1592)に伏見「指月の岡」に隠居のための屋敷の造営を開始、文禄5年(1596)に指月城として完成を見たが、閏7月に起こった慶長大地震により多くの建物が倒壊してしまった。これを受け秀吉は指月城の北東側にある木幡山に新たな城郭・木幡山城と城下町の造営を開始したが、建設中の慶長3年(1598)8月に完成を見ることなく、秀吉は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」の世辞の句を残し、城中で死去した。享年62歳であった。秀吉の死後、その遺言によって秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦である「伏見城の戦い」で、石田三成方の西軍の攻撃を受け、家康家臣で城将であった鳥居元忠は壮絶な討ち死にを遂げ、8月1日に木幡山城は落城、焼失した。
翌年の慶長6年(1601)灰燼に帰した木幡山城は、家康の命により藤堂高虎が普請奉行となり再建が開始され、翌年末に完成を見た。
この城では、慶長8年(1603)家康が征夷大将軍の宣下を受け、その後、二代の将軍も宣下を受けている。また、豊臣方に対する西の軍事拠点であったが、慶長20年(1615)の豊臣氏の滅亡や元和の一国一城令を受け、元和5年(1619)に廃城が決まり、翌年から城割りが始まった。元和9年(1623)7月家光の将軍宣下は本丸部分に若干の修復をし執り行われ、その後に完全な廃城となった。伏見城の天守は二条城へ、多くの建物は福山城、淀城に移築され、それ以外にも全国各地に移された。
城跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、やがて桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになった。

構造と感想
木幡山城のうち北堀、弾正丸(浅野長政)、大蔵丸(長束正家)、徳善丸(前田玄以)、御花畑山荘は、伏見桃山運動公園として開放されているが、それより南側の本丸ほか中枢部は桃山御陵(明治天皇陵)として柵で囲われており立ち入れない。なお、徳川の城は、中枢部のみで運動公園部分は放棄されている
遺構としては、弾正丸および大蔵丸の北側の空堀に伏見北堀公園が整備され、巨大な堀跡を見ることができる。御花畑山荘には、昭和39年に建設され平成15年に閉園した遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のシンボルであった連結式模擬天守が残っているが、中には入れない。
現在、各地に残る伏見城から移築されたと伝承される「伏見櫓」「伏見門」などの物は、徳川家康による伏見城が廃城となった際に解体、移築されたものである。
近隣では、伏見城大手道を下がった御香宮神社の門が伏見城の大手門で、元和8年(1622)に移築されたものである。また、源空寺の門も伏見城の城門と伝えられている。さらに、残石が御香宮神社や桃山御陵の参道沿いに集積されているが、これも徳川の城のものと思われる。

道 案 内
JR奈良線「桃山駅」から北東へ直線距離で800m程に位置している。JR桃山駅を出て右手に90m程行き、右折し踏切を渡る。大手筋通を北東に150m程行った信号交差点で左折し、後は道なりに800m程坂道を登って行くと道路終点に有料駐車場があり、模擬天守が建っている。なお、城の中枢部は南東側の山陵である。

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移築大手門    神社の残石     移築城門     参道の石垣石の刻印